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第2話 風景写真



 眞山鉄道では、駅員住宅が用意されているのだが、槙永に与えられたのは一軒家だった。当初こそ驚いたが、暮らす内に、空き家が多い町なのだと知った。買い物が可能なのも、個人商店が三つきりだ。他にはインターネット等で通信販売を利用するか、休日に車で隣の町や少し遠い眞山市に出かけて買い物をするほかなく、そうしている住民が多い。飲食店は二店舗あって、一つは役場前の定食屋、もう一つは都会からセミリタイアしてきたシェフが完全予約制で経営しているという北欧料理店だ。


 夏は暑く、冬は雪が深い。秋と春は一瞬で、大半が夏か冬だ。


 細い歩道のすぐ隣には、野生の草花が生えている。右を見ても左を見ても、風景には山が入り込む。木々が色づく季節までもう少しだが、今はまだ残暑が厳しい。心地の良い朝の風が、槙永の艶やかな髪を揺らす。


 駅から十五分ほど歩いて帰宅し、槙永は鍵を開けた。長閑な土地で、ほぼ全ての人が顔見知りらしい。町の人々は、別の土地から来た槙永に良くしてくれる。だが――決して深くは踏み込んでこない。ヨソモノという概念もまだ根付いているようだ。その距離感が、逆に槙永にとっては心地好かった。


 靴を脱いで中へと入り、まっすぐにキッチンへと向かう。オーブントースターに食パンを放り込んでから、スクランブルエッグを作り、簡単な朝食とする。それらをリビングへと運び、行儀は悪いが、ノートパソコンを起動しながら口に運んでいく。


 パソコンの画面に表示されているのは、写真サイトだ。四季折々の深水町周辺の風景や、眞山鉄道関連の写真が掲載されている。青辻泰孝という写真家の個人サイトだ。他にSNS等でも写真は閲覧出来る。有名な写真家で、国内外の風景写真を専門としている人物だと、プロフィールに書いてある。


 槙永は、チラリと背後を見た。壁の前にある本棚には、青辻の写真集が全て揃っている。元々槙永は、青辻の写真に惹かれて、眞山鉄道に入社し、深水駅の勤務を希望した。


(この写真達に出会わなかったら、今の俺は無いだろうな)


 内心でそんな風に考えながら、味気ないチーズトーストを噛む。


 大学卒業後入社した、都会の鉄道会社にいた頃は、駅といえば最先端の設備があるという印象しかなく、同じ日本というこの国に、深水のような駅があるとは、想像すらしていなかった。自分は一生、都会で暮らしていくのだと思っていた。だが職場に性癖が露見して、生活が一変した。


 槙永は、物心ついた頃から、女性に恋愛的な好意を抱いた事が一度も無かった。当初はそれをおかしいと感じていなかった。まだ恋する相手と出会っていないだけなのだろうと、漠然と考えていたからだ。しかし、高校から大学へと進学し、社会人になった頃には、自分の性的な指向を理解し、同性しか愛する事が出来ないのだと気が付いてしまった。


 最初はそれが友愛という感情なのではないかと思案した。だが大学の先輩が卒業し、鉄道会社に就職すると聞いた時、離れたくないと、もっとそばにいたいと感じた過去があり、気づけば同じ職場の採用試験を受けていた。


 その頃には、自分が同性愛者だと認めるしかなかった。


 メディアを見れば、昔ほど同性愛者への風当りは強くないように思える。だが少なくとも、槙永の周囲には、一人も同性愛者はいなかった。槙永も普段はゲイだと口に出すような事は無く、就職後再会した先輩とも時折話す程度で、想いを伝えたいと思った事も無い。


 先輩は、『コーヒーなら微糖が好きだ』とよく笑っていて、槙永にも度々差し入れてくれた。


 そのような日々の中、常時は仕事に励み、休日にはひと目を忍んで、ゲイバーに足を運ぶようになった。完全に公私を分けていた槙永は、このまま生きていくのだろうと漠然と考えていた。


 だがある日勤務中の駅で、ゲイバーで出会った相手が声をかけてきた。その者はお喋りで、人目も憚らずに、ニヤニヤとペラペラと、実に楽しそうに大きな声で、槙永の性癖を暴露した。運悪くそれを同僚数人が目撃し、後はあっという間だった。


 周囲は別段、同性愛者だからという理由で、槙永を排斥するような事は無かったが、噂は広まり、好きだった先輩もよそよそしくなった。家族の耳にもその話が入り、両親もどこか遠巻きに、距離を置いて槙永に接するようになった。


 それが契機となり、息苦しくて胸が詰まり、槙永は『人間』という生き物が怖くなってしまった。何度、己の自意識過剰だと考えようとしても、噂は届いてくるし、人の態度はふとした時に露骨になる。


 ――もう、この世界から消えてしまいたい。


 槙永は、日増しにそう考えるようになった。率直に言えば、死にたくなった。だが駅で勤務していると、いかに飛び込みによる自殺が身内にも周囲にも大きな影響を与えるのかも理解していた。遺体の清掃がなされない日が無い鉄道会社に勤めていた槙永は、同時に飛び込み自殺が年々困難になっている現状も知っていた。それでも電車がホームに入ってくる度に、死を考えずにはいられなかった。


 ホームドアが無いか、あるいは近くから線路に飛び降りる事が可能な傾斜がある土地。


 そればかりをインターネットで検索するようになっていたある日、条件に一致するのではと、発見したのが眞山鉄道だった。そして調べていく内に、青辻の写真サイトに行きついた。初めはそれもまた、死に場所を探しての事だった。


 ――どうせ死ぬのならば、最後にこの風景を見てみたい。


 槙永はそう考えて、有給休暇を用いて数日の休みを得た。そしてその年の秋が終わる直前に、眞山鉄道に乗車した。実際の風景を見てから、全てを終わらせるつもりだった。


 結果、後悔した。

 こんなにも綺麗な世界を、利己的な理由で汚したくない。

 そう思わせられるほど、心を揺さぶられた。


 冷えたその日、眞山鉄道のある駅で降りた槙永は、そこに売られていた青辻の写真集を購入し、ベンチに座って頁を捲った。主に深水駅周辺の風景の写真集だった。そして、他の季節の風景も見たいと願った。ここには、心を煩わせるような他者は誰もいない。ただ自然だけが広がっている。無論いくら田舎とはいえ、そこで生活している人々がいるとは分かっていたが、彼らは槙永の性癖の事など知らない。


 ――この世界から消えるのではなく、あの環境から逃げて、ここを終の棲家としたい。


 それが、写真集を見ながら槙永が導出した結論で、気づけば頬が濡れていた。駅のベンチで一人俯き、一体いつ以来泣いたのだったのかと考える。他にひと気は無かったから、誰に気づかれるでもなく、声こそ出さなかったが槙永は思う存分泣く事が出来た。


 冬になる前には、当時の勤務先に退職願を出した。会社は槙永を引き止めなかった。同時に、滑り込みで眞山鉄道の入社試験を受け、次の春からの勤務が決まった。実家の両親も、槙永が遠方に出ていくと話した時は、どこか安堵した様子だった事を思い出す。


(もう、あれから二年か……)


 チーズトーストを食べ終えた槙永は、眺めていた写真集の背表紙から、パソコンへと視線を戻した。眞山鉄道の有人駅は、深水駅と、写真集を購入した五つ先の駅、そして眞山駅の三つだ。中でも写真が多かった深水駅を選んだのは、最も間近で見たいと感じたからだ。


 この二年の間、青辻の写真サイトに深水駅周辺の新規の写真は掲載されていないが、槙永は己の目で実際の風景を見ている。そんな日々は、槙永にとっては非常に優しい。それでもいまだ、他者に対する恐怖は癒えず、槙永の表情筋は上手く仕事をしないが、長閑な田舎の町では、あまり困る事も無い。


 同僚の澤木と人間の駅長の田辺、猫の駅長のフキは、槙永が不愛想でも気にしない。少ない客達も、あまり深入りはして来ない。だから、最低限の対応でも許される。


 こんな穏やかな日々が続けば良いと祈りながらシャワーを浴びた後、槙永はベッドに入った。





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