茜の願いを聞き入れ、僕は水を冷蔵庫へ取りに行く。冷蔵庫はガレージ上の自宅に備え付けてあるので、少しばかり茜から目を離す事になってしまった。
しかし、心配はなかった。四肢を失い、更には厳重に拘束までされている茜に何もできるはずがない。念には念を入れ、目と口すら塞いだ。まさしく茜にとっては八方ふさがりという奴だ。茜は改めて自身の無力さを痛感し、嘆く事だろう。
そして、僕の存在の必要性も……痛感する事だろう。
「さて、ついでに食事の用意もしておいてやろう」
まず冷蔵庫を開け、中身を確認する。
冷蔵庫の中には天然水と大量の流動食が備え付けてある。そこから今日の分の水と食料を手に持ち、僕は冷蔵庫を閉める。
「それに……入浴の必要もある。茜の美を保つ為には、衛生面にも気を配らなければ」
更に僕は冷蔵庫の隣のキッチンでタオルをお湯で濡らし、石鹸やシャンプーの類も用意する。
茜は誘拐されてから一度も入浴も、トイレでの排泄も行っていない。当然、入浴を怠ればいくら茜とはいえ不潔になっていく。更に……排泄に関しては端的に言えば垂れ流しの状態。茜は排泄を求めるような素振りを見せなかったが、生理現象に抗えるわけがない。衛生的に考えても、入浴によって身体を清め、清潔を保つ必要性は明確であった。
正確には、『入浴』というより汚物の『清掃』に近いかもしれないが、僕はそれすら喜びに感じる。
この世界で、茜の美を保つためには、僕という唯一無二の存在が必要不可欠であると、更に強く感じることができるのだから……。
僕は入浴と食事の用意を済ませ、ガレージへと降りる。
ひとまず持ち物をテーブルへ置き、茜の方へ向かう。
ガレージ中央には、拘束された茜が座していた。神経の通らない造り物の四肢は綺麗に揃えられ、まるで絵画の様だ。
だが、その表情は乾ききり、憔悴しきっていた。そんなアンバランスが、妙に芸術的に感じられた。
「さぁ、食事と水を持ってきたよ。それが済んだら入浴の時間も用意している。心配しなくていい、君の身体の汚れは僕が隅々まで取り除いてあげるからね」
人間である以上、汚れは生じる。こんなにも美しい少女からも、汚物は湧く。
誰もがその負の面から目を逸らしたがり、避けたがる。けれど、僕はそこからも逃げない。茜の為ならば僕は茜の全てから逃げることも、目を逸らす事も無い。
清らかな茜も、汚れた茜も……どちらも愛せるのが、この僕なのだから。
「ん……んッ」
「そう慌てるな。逃げたりなんてしないから。今……口の拘束を解くからね」
僕の声を聞いた途端、茜は魚のように体を激しく痙攣させ始めた。
最早、茜の身体は限界を超え、無意識のうちに水分を身体が求めている……そんな様子だった。
「……っかは……はっ……ァ」
口の拘束を解かれた茜は、涎を垂らし、舌を下品に伸ばして水を要求する。
卑しい、下品な光景。だが、僕はそんな茜すら愛しく感じる。
「さぁ、口を開いて……まずは水から」
犬の様に茜から伸びた舌を潤すため、僕は背後に設置されたテーブルの方を向く。茜との視線の交差が一瞬、外れる。
だが今思えば、この一瞬の隙が致命的だった。茜の信用を得て舞い上がっていたからこそ、僕はこの一瞬の隙を生み出してしまったのだ。それが茜の狙いであったとも知らずに。
そしてテーブルに置かれたペットボトルに手を掛け、キャップを捻り始め、茜の方へ向き直そうとした……そのたった数秒間の隙の中だった。
顎が外れる寸前まで開かれた茜の口は、舌を伸ばしたままの状態で……思い切り、容赦なく口を力任せに閉じたのだ。
「……ぎぃッ……」
すると、どうなるだろう。上下の白い歯に押し潰され、桜色の舌は鮮血を撒きながら茜から分離し、そのまま床へと自然落下していった。
べちゃ、と濡れた肉の音が僕の耳へ入り込んできた。
茜が、自ら舌を噛み切ったのだと理解するのに、僕は数秒の時間を要した。
「ぐっ……きゅッ……」
茜は人の声とは思えないような、短い詰まった悲鳴を上げ、苦痛に悶える。
半分ほどに噛み切られた下からは、無残に鮮血が噴き出している。
「茜! 何をしている、茜ッ!」
「じなせ……はッ……しなへてぇ!」
舌を失い、言葉すら満足に発するこの出来ない茜。声を発するたびに、茜の口からは生々しい血が流れ出る。
茜にとって、最後の抵抗。それは、自らの舌を噛み切ってでも自殺を遂げ、僕の手から逃れることであった。
「馬鹿な真似を……!」
しかし、残念ながら茜は死ねなかった。それが現実であった。そもそも舌を根元から噛み切れば運よく窒息死や失血死をすることはあっても、それはかなり稀なケース。確率はそう高くはない。
極限状態の中での最後の逃げ道だったのだろうが、運命が茜に味方することは無かったのだ。
僕は茜の気道を確保し、とにかく窒息死の危険を避けながら止血の準備に取り掛かる。
「茜! 何故、何故……自らの美を、僕の存在を否定する!? 何故……ッ」
「……死……にたっ、もう、……死にッ……たぃ」
飢餓と絶望……肉体と精神が極限まで追い詰められた茜は、口の拘束が解かれるタイミングを計り、自殺を試みた。
いつからこんな馬鹿げた真似を計画していたかは分からないが……いや、そんなことはもうどうでもいいのだ。
ただ、僕はまたしても茜に裏切られた現実に、抑えようのない怒りを感じていた。
一度は支配したと、茜が僕を欲するようになったと思っていたのに、また茜は僕を裏切り、否定した。
怒りと悔しさ、悲しみは更に増し、僕は理性を保っていられなくなる。
茜が僕を頼り、求めると口にしたのは……嘘、罠だったのだ。僕を信用させ、自殺のタイミングを計るための罠として、僕は騙され、利用され、罠に嵌められだけだったのだ。
「だからこんな真似をしたのか? ふざけるな! 茜を汚すような真似は、たとえ茜自身であったとしても許されない!」
コンクリートの床に拳を叩き込み、僕は獣のように吠える。
何故? 何故何故何故……そうまでして、僕から逃れようとする? 分からない。
僕は茜の舌の止血と接合が済むまで、ずっと子供の様に泣き喚き続けた。