茜の背後に、見覚えのある幻影が浮かび上がる。年老いた、そして僕に似て醜い女の姿。
そして、脳裏に再び蘇る。その女……母に執拗に殴られ、蹴られた過去の悪夢が。
(どうして言われた事が出来ないの?!)
(何でこんな事が出来ない?! 何故言われた通りに出来ないのあんた!)
(ごめんなさい、ごめんなさい)
(謝ってばかりで、理解できてないなら意味が無いの! 本当に馬鹿な子!)
何をしても母を満足させられなかった僕は、毎日毎日、何度も何度も罵られながら殴られた。
本当は優秀で、やれば出来る子。身の程知らずの母は我が子の僕に過剰な期待を寄せた。そうして育てられものの、僕は最後まで母の期待に添える子ではなかったのは言うまでもない。
そして、とうとう大学受験にまで失敗した時、そこから母は完全に僕への興味を失った。怒りも呆れもする事はなくなったが、僕の存在そのものを認知すらしなくなったのだ。
大学を退学になった時も、母はただ要らなくなったゴミを捨てるかのように、僕を勘当した。自身の思い通りにならない僕など、最早ゴミ以下の存在だったのだろう。
悲しみはなかった。ただ、心の中から何か感情の一部が欠落したようには思ったが。
(こんなにも、こんなにも僕は頑張っているのに……)
幼い頃の僕は、頑張っている自分がなぜここまで執拗に責め立てられなければならないのか理解できなかった。
「こんなにも、こんなにも僕は頑張っているのに……」
だが、ようやく僕にも分かった。理解できない母の様に馬鹿な女には、あらゆる手段を用いて無理矢理にでも理解させてやらねばならないという事に。
母も茜も、僕を理解しようとしなかった。馬鹿な女だ。
だから、どんな手段も使ってでも理解させてやらなければならない。
やがて、母も茜も理解する事だろう。僕の高尚な計画の存在理由を。
「何故、分からない?」
「分からないわ……だって、あんたは逃げているだけ! 人と真っ直ぐに向き合う事が出来ない、怖いからこんな事でしか人を無理矢理……こんな事をするなんて!」
茜は僕を分かったような口を生意気に叩く。
お前に何が分かる。僕が真っ直ぐに向き合った時、理解してくれた人間はいなかった。
だから、だから僕は……。
「君も、否定するのか……僕を、あの時の母の様に」
愛する君に残酷な仕打ちをしなければならない。
これから僕は更に君を苦しめなければならない。
母のように、僕を否定する君を……矯正し、理解させなければならない。
そして、そのために僕は決意したんだ。僕は僕を否定するあらゆる事象を、君から取り除くと。それが例え、今の茜を壊す事であっても。
汚い言葉を吐く口には口縫いの罰を。僕を否定し、抵抗する手足にも罰を与えなければならない。
「……」
僕の手を振り払い、否定した君のその悪い腕……理想の茜には、不適格だ。
「聞いてるの?! こんな卑怯な真似はやめて……」
「……この美しい彫刻の様な筋肉も、年が重なればやがて腐る落ちる。なら、こんなもの最初から……必要ないじゃないか」
今は美しく無駄な贅肉もないしなやかな腕。だが、やがては老い、腐り……醜く朽ち果てる。
それに加え、この腕は僕を否定した。
不完全だ。不必要だ。
そんな腕は、無い方が良い、要らない。
「は? あんた何を言って……」
「心配しなくていい。健全な美から悪い部分を切除する……僕が大学で齧った、医学と同じさ」
「ふざけ……ない、で……っ」
それでも食って掛かる茜だったが、徐々に意識が混濁し始めたようで、呂律も回らなくなってくる。
椅子にも座っていられず、やがて床へゆっくりと倒れ込む。
「なに、これ……?」
「ふん、ようやく流動食に混ぜた薬が効き始めたか。無理をせず眠るといい。恐らく、君にとってもそちらの方が都合が良いだろう」
流動食にはある薬品を混入させておいた。平たく言えば、急激に効果の現れる即効性の睡眠薬のようなもので、身体の自由を短時間奪うにはちょうど良い代物だった。
本来は茜を薬で眠らせた後、暴れられる心配もない彼女の肉体を余すことなく観察する予定だったが、それより早急に対処すべき事象……茜から早急に取り除くべきものを、取り除かなければならなくなった。
だが、丁度良かった。どちらにしろ、茜にとっては意識を失っている方が都合が良いはず。
「痛い思いは、なるべくしないほうがいいだろう?」
彼女が眠っているその間に、早急に済ませてしまおう。