俺は夜、庭に出て夜空を眺めながら鶴の話を何度も脳内で反復していた。
信じられるような話では無かったが、鶴があそこまで真剣に話している姿を見ると、疑う気も失せてしまう。
実際に俺が誤催眠にかけてもらえば良かったのだが、それは鶴が頑なに拒んだ。
誤催眠は一人につき一度しかかけられず、更にその一度の催眠は永続的に続くのだという。つまり無暗に誤催眠をかければ、永続的に一部の感覚を狂わされる。
雪がそうなように、鶴にとって誤催眠は『人の持つ感覚を永続的に蝕む能力』であり、無暗に使うべきではないと語った。
そう言われ、俺も少し躊躇ってしまい、結局誤催眠を受けることは無かった。
「……」
雪は、永続的に鶴に操られ、騙し続けられる。責任感の強い鶴にとって、それは重くのしかかる重大な罪なのだ。
だが鶴はこの能力を使って何かをしようというわけではない。ただ俺には知っておいてほしかった、知った上でこれからも味方でいてほしいという鶴の願いだった。
理解はできなくても、ただ知っておいてくれればそれでいいと鶴は話していた。
「うわ、何一人で黄昏てるの。似合わない」
その時、庭の奥から声がした。
妹の静だった。こんな夜中だというのにこれから何処かへ出かけるような格好だった。
「うるせぇな、お前こそこんな夜中にお出かけか? 子供には似合わないぞ」
俺は軽口を叩いてみるも、静の表情は冴えない。
普段なら、俺の冗談や軽口にも楽しそうに反応するはずだが。
「……おじいちゃんに呼ばれたの、夜の内に鈴音神社の周りを清潔に保たないと、また祟りが起こるーって。なんか村中の子供たちに呼びかけたらしいけど、どうせ集まらないだろうし……私が行ってあげないと、また怒っちゃう」
静は呆れたように言った。けれど不思議と嫌がっているようには見えなかった。
「静、こんな夜中にあの爺さんの戯言に付き合ってやらなくてもいいんだぞ。医者だって言ってただろ、あれはもうどうしようもないって」
家族の中でも厄介者扱いされている祖父。誰も痴呆の爺さんの言うことなど真に受けていない。だが静だけは違った。爺さんの無理難題にも耳を傾け、向き合っている。
まだ痴呆という事実を受け入れられないだけかもしれないが、静にばかり無理をさせて申し訳ないと家族の皆が思っている。
「だからって、みんな冷たいと思うよ。お兄もさ、鶴ちゃんのことで村人がどうとか村が嫌いだって言うけど、お兄だって……」
だがそんな俺の言葉に静は珍しく怒っているようだった。
確かにその通りだ。俺は鶴の差別に反対しておきながら、祖父に対しても「痴呆だから」という一言で祖父の全てを盲目的に否定してきた。
痴呆の戯言だと決めつけ、まるで相手にせず否定してきた。これでは鶴を裏切者だと決めつけ、蔑ろにしている村の連中と同じだったのかもしれない。
「おじいちゃん、きっと寂しいんだよ。だから、あんな滅茶苦茶なこと言ったり、やったりして……きっと、みんなに話を聞いて欲しいんだよ」
静の言葉に俺は言葉を失う。きっと子供ならではの純粋な意見だろう。
だが、まさか自分の妹に論破される日が来るとは、思ってすらいなかった。
俺自身も、知らぬ間にこの閉鎖的な村の空気に汚染されていたのかもしれない、と俺は自嘲気味に笑う。
「あ……ごめん、生意気なこと言って。おかしいよね」
静は口をつぐんで、小さくなってしまう。
「いや、おかしくなんてないさ。おかしいのは……俺を含めた大人たちなんだと思う」
俺は静の頭を撫で、静の表情は途端に明るくなる。
「じゃあ……もう行くね。おじいちゃんもう先行ってるし」
「ああ……気を付けるんだぞ」
そしてこの夜……俺と静は、別れた。
この夜が、俺と静の最期になってしまうとも知らずに。
翌朝、あまり眠らないまま待ち合わせの公園で鶴を待つ。
今日からは鶴、そして雪ちゃんと一緒に登校をすると決めたのだ。昨日の鶴のお願いとは、毎朝欠かさず白羽兄妹と登校し、下校するという事だった。
鶴は俺まで村八分の対象になるのではないかと考え、なかなか言い出せなかったらしいが、俺は悩むことも無く承諾した。
雪ちゃんは正確には登下校ではなくそれの付き添いだ。まだ学校の授業を受けられるような体調ではないそうなので、登下校時だけ散歩と言う形で姉に付き添いたいと言い出したそうだ。
「……俺も、変わらなくちゃな」
昨日の静を見て、俺は決めた。少しずつでも良い、他人と分かり合える道を進むことを。
痴呆だと決めつけていた祖父ともしっかりと向き合う。鶴がどんなに罵られようとも、俺だけは彼女を信じる。
今までの俺はただこの村が気に食わなかっただけだ。村を変えようと何か努力したわけでも、自分自身が変わろうとしたわけでもなかった。
何かを変えるためには、まず自分が変わらないといけない。そんな簡単なことに、やっと気が付いたんだ。