俺と雪、そして鶴の三人は日が暮れる前に白羽の家の前に着いた。途中の道で雪ちゃんが鈴音神社のお参りに興味津々だったが、日が沈みそうだったので鶴が無理矢理引っ張りながら帰って来た。どうやら健康を願いたかったようだが、また日を改めて行けばいい。
雪は約束通りに家の前で口の中で転がしていたおはじきを吐き出し、それを姉である鶴に返した。
俺はその異様な光景を黙って見ているしかなかった。
そんな俺を尻目に、雪は裏口からこっそりと家に入っていった。
「……どういうことだ」
雪が家に入ったのを確認してから、俺は鶴に問う。
「実を言うと、大した話じゃないんだ。私は幼い妹を……騙している」
「それは、見れば分かる。ただのおはじきを飴玉だと騙して雪に与えているんだろう」
どういう術かは知らないが、雪はおはじきを本当の飴のように舐めていた。
貧しさを紛らわせるため、無理をして舐めているような様子でもなかった。
「……うん。あの子は私が本気でいくら舐めても溶けることのない、魔法の飴を持っていると思い込んでる。実際は、こんな古びたおはじきなのに」
「……それは、雪が本物の飴を舐めたことが無いからって事か?」
だが、この時代にいくら貧しくても、飴の味を知らない子供などいるはずがない。だが、雪のあの幸せそうな表情を見ると、本来の飴をそもそも知らないのではないかとすら考えてしまう。
「いくら戦時中、貧しかったって飴の味を知らない子供なんていないよ。雪は本物の飴の味を知っていてもなお、このおはじきが魔法の飴だと思い込んでる。ううん、私が思い込ませている」
「どうやって……」
催眠や幻覚などで雪の味覚を操っているのか。
だが、鶴にそんな高度な催眠の知識や技術があるようには見えなかった。けれど実際に雪はおはじきを飴だと誤認している。そこには何かからくりがあるはずなのだ。
人の感覚を欺くには、相応の技術やからくりが必要になるはずなのだ。
すると鶴はずっと付けていた眼帯を外した。気にはなっていたが、気を遣ってあえて眼帯の話題には触れなかった。
そして、眼帯の下の左目には……深い緑色の、美しい義眼がはめ込まれていた。
「この左目、この義眼……見てどう思う?」
吸い込まれそうなほどに深い緑。宝石のような輝きの中には単なる美しさだけではなく、どこか妖艶さが漂っていた。
作り物の義眼のはずなのに、その瞳には生気に近い何かが宿っている様に見える。それほどまでに精巧で、不気味なほどに美しい。
「なんていうか……作り物なのは分かるけど、妙に精巧だな」
「元々は……人形の左眼だった物を私が拝借してるんだ」
「人形?」
俺が珍妙な顔をすると、鶴はごそごそと鞄の中を探り始める。
そして、その中から取り出された人形。俺はその人形に見覚えがあった。
爺さんの持っていた写真でしか見たことが無かったけれど、その不気味な表情を浮かべる日本人形は、俺の知る限りでは一つしかなかった。
「骨人形……鶴、お前これをどこで」
鶴の持っているそれは、過去に村から消えたはずの鈴音様の御神体、骨人形だった。
「疎開先で出逢った宣教師のお婆さんだよ。私も雪も生き倒れていたところをその人に救われてね、私たちが鈴音の出身だと知るとその人はまるで私と雪を実の娘みたいに可愛がってくれた。私が左目を失明した時も、真っ先に人形の左目を加工して義眼を作ってくれるような本当に優しい人だった」
「宣教師って……まさか」
鶴の話に出てくる宣教師は、間違いなく過去にこの村から人形を持ち出したと噂される人物……鈴音の母親であった。
「そう、私もこの前の話を聞いてから気付いたんだけど、多分鈴音様のお母さんにあたる人なんじゃないかな。日本の人ではなかったし、きっとそうだろうと思う」
つまり、人形を持ち出した宣教師と鶴が疎開先で出会い、その際に義眼と共に骨人形を譲り受けた……といったところだろうか。
鶴が鈴音村の出身と聞いて、何か運命的なものを感じた結果の出来事なのだろうか。
「それでね、唯一腑に落ちなかった事があって。義眼を貰った時に私は当たり前だけどありがとうと言ったの。そうしたら、その宣教師のお婆さんは目を伏せてこう言ったの、ごめんなさいって」
確かに、物を譲渡して謙遜することはあっても謝罪することはあまり自然な反応ではない。何か、義眼と人形を譲渡した事にもっと深い意味があるのだろうか。
「その時はそのごめんなさいの意味が分からなかった。けれど、ようやく分かった。この左目には、異能……いや、鈴音様の魂が宿っているんだってことを」
だが、鶴の解釈はとっぴおしも無い、まるでうちの爺さんみたいな解釈だった。
「おいおい、勘弁してくれよ……お前までうちの爺さんみたいな事言い出すなよ」
「人を誤認させる力……具体的には、黒を白に、白を黒のように、物体を別の物体だと誤認させる力があると、最近になって気が付いたんだ。だから私はこの力を用いて、ただのおはじきを飴玉だと誤認させている」
異能に気付いたきっかけは、雪が何度もおはじきを誤飲した事だという。鶴が何気なく発したおはじきが飴のようだ、という比喩を雪は真に受け……おはじきを飴であると未だに誤認しているというのだ。
俺には鶴の言っていることが理解できなかった。いや、理屈は辛うじて理解できるかもしれない。ただ、そんな事が実際に可能なのかどうか、あり得るのかどうかという点で考えがまとまらない。
そんな神のような能力が、鶴のような変哲もない子供に宿っているなんて信じ難い。
「だけどこの力にも限界があるの。蟻を像に誤認させたり、あまりにも物質としての規模が離れすぎている物は能力の対象外なんだ。どういう原理かは分からないけれど、私は物を誤認させる能力を持っている。それを私は『誤催眠』と呼んでる」
催眠術の類なのだろうか。しかし、ただの義眼にもちろんそんな力が宿るわけがない。
鶴が嘘をついている様子もない。
「私は専門家でもないし、あくまで仮設なんだけどね、私の義眼と相手の目が合った際、視覚から脳の信号っていうのかな、そういう物を狂わせて、誤認させる力を加えてるんじゃないかと思うの。だから目が合わないと誤催眠は発動しないけど、逆に一度誤催眠が発動すれば、恐らくだけど半永久的に効果は継続するんだと思う」
「だから、眼帯を付けていたのか? 誤催眠を発動させないために」
「ううん、最近になって誤催眠は私の意思……脳波っていうのかな? それと相互関係にあるってことを知って、それを遮断することで発動を抑制できるようになったの。雪の時は、それも知らずにずっと垂れ流しにしていたからあんな事になっちゃったけど……眼帯はただ外見を考慮しての事」
無意識のうちに能力を垂れ流した結果、鶴の何気ない一言が雪ちゃんを狂わせたのだ。
俺は鶴の話を黙って聴く事しかできなかった。急に鶴が遠い存在になったような気がした。今までのような幼馴染ではなく、それこそ神のような、特別な存在に感じられた。
「これで雪のお腹も膨れてくれれば良かったのにね。所詮は感覚の誤認だもの、実際に空腹が満たされるわけでも、栄養になることも無いんだから……私はただの詐欺師、ペテン師なんだ」
しかし、鶴の表情は妹を想う姉のものだった。余計に俺は鶴という存在が分からなくなった。
彼女は能力を得たからといって彼女自身が変わることは無かった。彼女の根底には、常に妹を想い、守る事への責任が根付いていたのだ。
「物を壊したりするのは容易くても、直すのはその何倍も難しい。いくら無意識だったとはいえ、私は妹を狂わせたんだもん。だから、せめてもの罪滅ぼしとして私は妹を守る……姉として、絶対に」
実害のあるような大きな感覚の誤認でもない。だが、妹の感覚……世界に僅かでもズレを生じさせてしまった事に対して鶴はとてつもなく大きな責任を感じていた。
「鶴……」
「だから、一つお願いがあるんだけど……いいかな? 雪を喜ばせてあげたいんだ」
鶴が俺にすり寄る。なんだか、甘い匂いがした。
俺は少し頬を染めながら、鶴の願いを聞くことにした。