何事にも、表があれば裏がある。
本業があれば副業がある。
これは、自らを「盟主・スパイ・モデル」という、光と闇の外面で固めた男の
※
季節は七月。
ノースブルク諸侯同盟・オリオン領西の端。ウエストエッジという街の片隅で、今。まさにとある女性が、スパイの毒牙に罹ろうとしていた。
「……よくさあ。”名は体を表す”っていうけど、あれ、幻想に近いと思うんだよね~。親が願ったように子が育つのであれば、苦労はない」
愚痴っぽく語るこの女性。
彼女の名前はミリア・リリ・マキシマム。24歳。
店の軒先でガタついたテーブルに肘をつきヤサグレ気味に串焼きの串を放る彼女に、よそ行きの笑顔を返す男がひとり。
「…………そうかな? 俺は君によく似合ってると思うよ」
「そうかなー? わたし、別に人を許したいとか思わないよ? 恨み持ったら一生許さないし、一生苦しみながら死に絶えて欲しいと思っている~」
「……はは、恐ろしいな」
「綺麗に生きたいとか思わないもん。綺麗事じゃないのよ~、世の中」
「────フッ! ずいぶん正直なんだな? 気に入った」
「あらま。それはどーも♡ ありがとうざんす~♪」
ミリアのやさぐれに、
今の名前を『エリック・マーティン』。本名『エルヴィス・ディン・オリオン』。このオリオン領の盟主であり、スパイとモデルの仕事も抱える副業盟主だ。
つまりこいつが毒牙をかけようとしている張本人である。
母親譲りの彫刻美麗フェイスを武器に。
絶対的な自信と、『女など容易い』の思惑を底に。
エリックはその緩い癖毛を耳にかけ、藍よりも深い瞳に
「…………なあ、ミリア」
「おっと。いきなり呼び捨てですか。なんでしょう? おにーさん」
甘い甘い声で絡めとる。
安飯屋の軒先、香ばしいスモークすらも材料にして。
「…………実は、さっき君の職場に顔を出したんだ」
「ビスティーに? なんで?」
「…………君と、話したくて」
「わたし?」
「────そう。君と」
出すのは興味。
君が気になるという空気。
それを出された瞬間、女は皆そわそわと浮足立つと、彼は知っていた。
「……君に惹かれたんだ。もっと君の話を聞きたい。なあ、どうだろう? 一緒に食事でも行かないか?」
「…………しょくじ。」
「──そう。君と、二人で。ゆっくりと」
「……いまたべてる……」
「………………」
ポリッ……
こっくん。
ざわざわざわ……
途端ざわめき出す周囲・固まるエリック・ミリアの揚げパスタ。
確かにそうだ。
確かにそうなのであるが、まさかそう返してくると思わなかったエリックは完全硬直した。
想定外の返答に固まるエリックに、ミリアはもぐもぐと中身を飲み込むと、
「いま、たべている。
………え。どうしよ。
もうお腹いっぱいなんだけど、あ、まって? 吐き出してきたらいい?」
「ちょ。ちょっと待って」
「ううううん、ごめん~。おにーさんは二軒目行けるかもしれないけど、わたしはもう入らないっすね……」
「……いや。まって」
「っていうか駄目だ! わたしこのあと仕事だし! 今おひるで中抜けで!」
「……えーと、待ってください」
先ほどまでの色気をどこへやら。
思わず待ったの手を出す
彼は、盗もうとしていた。
ミリアという女から、欲しい情報を。
彼女は、知らなかった。
目の前で話す男がスパイであり、盟主であることを。
──さて、一体どうして こう《・・》なったのか──
それは、ほんの少し前。
エリックとミリアの出会いまで遡る。
※
────『ならない!』
(…………またか)
耳に届いた女の声に息をつく。
目を向けた先、揉めている男と女。
どっかりと腰掛けていたそこから、わずかに背を浮かせ、手の内で新聞を折り畳む。
────『他へお回りください!』
石畳の上、足を組み もう一度。
────『……行かないって言ってるでしょ!』
投げる視線は、冷ややかなもの。
白い壁も眩しい家々の前、色とりどりの服や果実が花を添える店通り。
彼は思った。『ああ、収まる気配がないな』と。
そして彼は立ち上がる。
ぎゅっと踏みしめた革のブーツで石畳を鳴らして、こつ、こつ、こつと、ゆっくりと。
※
彼女は困っていた。
吹き抜ける風も気持ちよく、夏の訪れを感じさせる、よく晴れたとある日の午後。先週よりやや強く降り注ぐ日の光。商店が立ち並ぶ通り沿い、赤茶けた屋根が青空に映える。
ノースブルク諸侯同盟・オリオン領西の端。ウエストエッジの一画で、過ぎゆく雑踏のちらちらとした視線を受けまくる女性がひとり。彼女の名前は『ミリア・リリ・マキシマム』。この物語の女主人公だ。
女主人公のミリアだが、彼女はピンチだった。
「いいだろ? その荷物もってあげるってっ!」
「い、いやあ。大丈夫です~、ありがと~」
さっきからこの繰り返し。足を止めてしまったのが運の尽き。
彼女の足元、ペタンコ靴のかかとがコツンと音を立てて、背中に感じるのは壁の硬さだ。町娘仕様のふんわりスカートが壁で潰れ、カスれた音を立てる。
ピンチだ。ピンチである。
覆うように覗き込むナンパに向かって渾身の引き笑い。軽くあしらえるかと思っていただけに、想定外もいいところだ。
(……困った……!)
胸の内で呟きながら、胸元まで伸びた 深く濃いブラウンの髪を巻き込み、両腕で抱えた紙袋をぎゅっと掴んで、目線を投げた。
そのはちみつ色の瞳で見つめるのは、男の向こう側。通りを歩く見知らぬ人々。
覆われるように追い詰められているとはいえ、全く見えないわけではない。誰かが助けてくれるかもしれない。
─────しかし。
ちらり、ちらり、ひそひそ、……ふっ……
皆、目は寄越すが──……素早く反らして足早に過ぎていく。
(…………せ、世間って冷たい…………)
『厄介ごとはごめんだ』と言わんばかりに去りゆく民衆に、ささやかな悲しみを感じながら一言。傍から見れば『乙女の危機』なのだが、こんな時に現れる英傑など夢の世界の話である。
(……どーしよマジで……)
ウエストを締めている幅広のコルセットベルトに関係なく、胃がぎゅうっと縮む思いだった。
なんとか逃げる算段を立てるが、もう壁際に追いやられているし、ナンパ男の腕は思いっきり壁をドンしているし。顔は近いし、腕は太いし、なんか臭いし、どう考えても逃げられる状況ではない。
この間にも、ナンパな男は今も自分を囲みながら「ちょっとだけ」だとか「いいだろほら」とか、御託を並べている。
────それが、逆効果だということに気づかずに。
「…………」
その状況に、ミリアはすぅっと目を伏せ息を吸い込んだ。
────選ぶしかないのかもしれない。
ここで男に食われるか。
それとも────抗うか。
(──────はぁ──────っ……)
その状況に。
さっきからやかましいナンパ男に。
腹を決めたミリアは、渾身を込めたハニーブラウンの瞳でヤツを正面から睨み返して言い放つ!
「要らない要らない、そういうの迷惑。
わたし、これ、買い物帰り!
見ればわかるでしょ?」
キッパリはっきり言い切る彼女が次の文言を喰らわせるべく、見せつけるように動かすのは右腕の紙袋だ。同時に左手の麻袋をぐいっと持ち上げ見せつけると、
「重いの、これ。結構な重さなの。
こんな状態で『あら嬉しい♡ じゃあ、焼き菓子でも食べちゃおうかなあ♡』ってなると思う?
なるわけないじゃん!
ならない! ならないよ!」
身振り手振り、一人芝居も交える彼女。
その勢いは『絡まれている大人しそうな女性』というよりも『説教をかます母親』である。
色気も何もあったものじゃない。
意見を述べているのか煽っているのか分からないミリアの態度仕草に、ナンパ男の眉がピクンと跳ね上がったのを、知ってか知らずか。彼女は左腕の麻袋から手を離し足元に置くと、自らの胸を押さえ
「まずさあ、誘う相手が間違ってると思わない?
わたしみたいな荷物抱えた女じゃなくて、他の暇そうにしてるヒトとかに声かけない?
ほら、あそことか! あそことか!
たくさんいるじゃん!」
言いながらナンパ男の背後をぴしぴしと指しまくる。
指された女性からしてみれば迷惑な話である。
──────が。
彼女は止まらないのだ。
「普通、荷物もってせかせか歩いてたら『あ、忙しそうだ』とか思わない? 『声かけても無理っぽいな』とか思うじゃん? 思うよね? まあアナタが新手の宗教とかの客引きとかならわかるけど、そうじゃないんでしょ? 新興宗教の人なの?」
「……い、いや」
「じゃあ声かける相手間違ってるよ!
ずれてるズレてる、的外れもいいところ! 空のかなたに弓を放っても、ただカラぶるだけなの・狙ってるところがちがうの! もっと観察しなよ、荷物抱えて帰る女がお茶するわけないじゃん。
……いやまあ?
中には居るかもしれないけど?
でも、わたしはしない・早く荷物置いて楽になりたい!
観察力が!
不足していると!
思います!」
「────っ……!」
一気に早口、論破する勢いで捲し立てられ、ナンパ男の口元が怒りに歪んだ。
女の分際で男の自分にこれだけ言い返すのも腹が立つのに、女の言い分が妙に的を得ているから、さらにムカつく。そして悔しいことに、すぐに反論の言葉は出ない。
歩く姿がいいと思った。
軽い気持ちで声をかけた。
年齢も推定25、6と申し分ない。
大人しそうで、それでいて柔らかそうな雰囲気で、声をかけた時の反応がこのあたりの女の中では抜群に良かった。「これはいける」と、ナンパ男は思った。
……それだけに──
じわじわ沸々と沸き上がるのは『怒り』と『意地』だ。
細身の体。
服の上からでもわかる、ふくよかな胸。
尻や他の塩梅はわからないが──そこは、もはやどうでもいい。
これだけのことを言われて、おめおめと諦めるのは癪に障る。
力づくでも服をむいて、ごめんなさいと言わせてやりたい。
「……この女……いい度胸してるじゃねえか……!」
男は吐き出す声に顔に怒りを滲ませるが……ミリアの目つきは……変わらなかった。
「────もちょっと観察力とか想像力とかつけてきてからの方がいいと思う!
そしてわたしは行かない!
しつこいです! どうぞ他へお回りください!
そこをお退きくださいませ! お出口はあちらです!」
「オ・レ・ガ! 誘ってんのに来ねえのか!」
「はあ!?知らんし!行かないって言ってるで────っ!?」
迫られても怯まぬミリアのその顔に、次の瞬間、緊張が走った。
ナンパ男の大きな手が彼女の腕を掴んだのである。
明らかな怒りが込められたその力に、ミリアが(──やばいッ……!?)と喉を詰まらせた──その時。
「……ちょっと。いい加減にしてくれないか」