男は、自分に自信があった。
身体能力はもちろんのこと、容姿にも絶対的な自信を持っていた。
彼が微笑みコナをかければ、女はうっとりと彼に身を委ね酔い始める。むしろ、黙っていても寄ってくる。
容姿端麗、文武両道。
スタイルだって抜群にいい彼に、うっとりとしない女など今までいなかった。
──────しかし。
「……………ぃぁく、だ…………!」
「なにー?」
「なんでも」
カウンター外。
窓際に置かれたソファーの上。
ガラスの向こう側、外の閉まった店舗を背景に、足組みしながら毒づいて、ぶっきらぼうに答えるのは黒髪の青年”エリック”だ。
カウンターの向こう側で背の高い丸椅子に腰掛け、何食わぬ顔で針を通す服飾工房の女・ミリアの顔も見られない。
彼女を見るたび思い出す。
先ほどの────”盛大な勘違い”。
(…………最悪だ。赤っ恥もいいところだ。
コルセットを解きながら言うセリフじゃないだろ、
……は────っ……!)
今にも飛び出そうなため息を喉の奥で潰すエリックの中、蘇るのは彼女の微笑みと『脱いで』。
徐々にほどけていくコルセットベルト。
誘うような視線、物言い。
耳から本能を刺激する甘い声。
完全に勘違いをする態度・雰囲気────
────を醸し出していたくせに『ボタン取れてる』と来たもんだ。
完全に硬直する自分の前で、ミリアは
『だってコルセット苦しいじゃん。仕事の邪魔』
と、さも当然の様に言い放ち、ストールでウエストをきっっっちりと締め上げ、ベストを回収していったのである。
ああ、勘違い。
そして、すぐには帰れない。
ベストはまだまだ返らない。
その居心地の悪さと言ったらない。
完璧に誤解した自分が恥ずかしい。
しかしあれは無理もない。
あんなところでコルセットベルトを外すな。
(~~~~~~~ーっ…………!)
恥ずかしさと自己正当と。
内部葛藤を繰り返すエリックを気に留める気配もなく、ミリアは
────慣れた手つきで、ボタンに針を通している。
(────…………ボタンが付いたらすぐに帰る)
いまだ、沸々と湧き出す羞恥を表情筋で閉じ込めながら、ふうっと息も短く横目でちらり。
エリックは頬杖で口元を隠したまま、ぶっきらぼうに声を投げた。
「…………まだなのか」
「ボタンは終わってる~けど、」
「けど、ナニ」
「裏地が破れそうになってるから、ついでに補強してる~」
「……………………」
さらっと言われて言葉に詰まる。
…………確かに、そこは気になっていたところだったからだ。
彼の中、一刻も早く帰りたい気持ちと、そのまま任せてしまいたい気持ちが混じりあい────……
一瞬の間のあとで。
彼の脳が拾い上げたのは、次の言葉だった。
「………………そこ。
気になってたんだ。直る?」
「もち!」
問いかけに戻ってきたのは軽快な声。
彼女はふふんと一つ笑い、緩やかに首をかしげると、
「……まあ~「助けてくれたお礼」に?
……ほらー、荷物まで持ってもらっちゃったしねー」
縫い合わせる指は止めずに、軽い口調で言う。
「…………、いや、別にそれは」
「ああ、別途サービスしたらいい?
うぅーん、それは困るなあ~」
困惑の自分に戻ってきたのは軽~い言葉。
言ってもいないことまで言い、自己完結するミリアの手の動きは軽やかだ。
「……こちらも商売なのでっ。
サービスばっかりしてたら、あっという間に干上がっちゃうもん」
『ふふふん』と冗談交じりの言葉に、エリックはこっそり息をつく。
そして、眺める彼女の手元から、ざらりと周りを見渡して、
(────まあ
こういうところに勤めているぐらいなんだから、これぐらい……、ん?)
そこまで考えて。ふと。
思い浮かんだ疑問は、エリックの意識をすり抜けて、素直に滑り出していた。
「…………君は、”縫製師”?」
「ううん、わたしはスタイリスト。
着付け師ともいうよね」
何気ない質問に、テンポよく返ってくる返事。
彼女はベストの裏地に糸を通しながら、言葉をつづける。
「ドレスって、一人で着れるわけじゃないからね。
家で着せてくれる人がいないお客様もいるわけ。
あとは、提案もするよ。
この店は『お客様に似合う服』を提案して、作るところなの。
バリエーションもあるでしょ?
流行りはあるけど、それでも種類が多いから
『似合う洋服がわからない』
『どんな色を合わせたらいいのかわからない』
『どれを着たらいいかわからない』って人も多くて」
言うミリアは饒舌に、顔を上げて話をつづける。
「そんな人たちに好みを聞いて、
似合う色や形を提案して、
”爪の先から頭の先まで
さいっこうに似合うスタイルを提案する”
それが、わたしの仕事。
…………さすがにヘアメイクはできないけどっ。
あと、メイクもっ」
「……てっきり針子かと思ったけど」
「ああ、買い物のこと?
買い物や買い付けにも行ったりするの。
さっきは、足りない布とか買ってきた。
ここの棚、布や糸で綺麗でしょ?
インテリア兼在庫ストック棚にしてるの。
後ろで布使っちゃって歯抜けになるとみっともないのよ~」
困ったように言いながら、ミリアは肩をすくめながら糸を引く。
滑らかな手元で『スッ』と小さく、糸が通る音がする。
「──で、まあ
お直しとか、小物づくりもやってるわけで。
わたし、受付窓口だから。
これぐらいはできるようになるよね~職人さんたちは忙しいから」
彼女は手元の糸をすぅ──っと引き上げ、小さなハサミに手を伸ばした。
その手元、”プツっ”と切れる糸の様子、”ことり”と置かれる小さなハサミ。
仕上がりを察して立ち上がるエリックを前に、彼女は軽くボタンを指で引っ張ると、続けて、布地を返して、もう一度。
縫い目を撫でて仕上がりを確認し────
こくりと頷き、ベストを差し出し、顔を上げた。
「────はい、完成。
ボタン、割れてたから新しいの着けといた」
「…………割れてた?」
「うん、もうね~、限界ギリギリって感じでついてたから、交換しちゃった」
「…………悪いな、ありがとう」
「いえいえ、お安い御用ですとも」
答えてミリアは首を振る。
彼女にとっては本当に簡単な事なのだろう。
カチャカチャと音を立てながら道具をしまう彼女を横目に、エリックはベストの内側に目をやった。
破れかけていた箇所は、色を合わせた糸できちんと縫い付けてある。
「…………縫い目、綺麗だな」
その仕事に、自然と漏れる感嘆の言葉。
返ってきたのは、陽気な笑い声だった。
「そりゃーねっ、うちの職人には負けるけどっ」
「薄くなっていたのには気づいたんだけど……
なかなか、手が回らなくて。
……こんなに綺麗に直るとは 思わなかったよ」
「裏だし、薄くなってるところを中に織り込んで縫っただけだよ。
本当なら 一本一本、糸を絡めて紡いで差し上げたいところではあるんだけど……
時間かかるんだ、あれ」
「……いや、十分だ」
カウンター越し、肩をすくめる彼女に小さく首を振る。
「そっか」と小さく笑うミリアの前、エリックは何気なく辺りを伺うと、
「…………店はいつもこんな様子なのか?
さっきから、人が全然来ないけど」
いいながら、二人そろって目を向けるのは、窓の外。
外にひろがる、穏やかな初夏の午後。
窓の外、テントの影も色濃く石畳の上に映えている。
行き交う人もまばらな通りを窓ガラスの外に、次に見るのは壁掛け時計だ。
この店と同じように年季の入った掛け時計の針は、彼がここを訪れてから、ゆうに小一時間以上経っていることを示していた。
顔の表層に、微細な心配を浮かべるエリックに、しかし彼女はけらけらと笑うと、
「まーねーっ。
…………モーテル通りにいくつも新しい工房ができたでしょ? 若い人はそっちに流れちゃうよね~。ウチみたいに、旧街道に建つ店なんか大体こんなもんだよ~」
「……大丈夫なのか?」
「それはご心配なく~。
愛され続けて50年。ビスティーは、お客様の満足にお答えします♡」
答えながら右で作るブイサイン。
閑散としている店など全く気にもしていない様子に、エリックが(呑気なもんだな)と、わずかに笑みを浮かべそうになった──その時。
「────と、言うわけで」
「ん?」
「──500メイル。頂戴しまーす♡」
「はっ?」
声も高らかに。
ぺろっと出した手の指を、ちょいちょい動かしながら言い放つ彼女に、間の抜けた声を上げた。
一瞬。
彼の中でめぐるのは『お礼』の一言である。
それらを瞬時に顔面の表層にのせ、エリックは戸惑いの目を向けると、
「…………え。金をとるのか……!?」
「当たり前でしょ、ただでやるわけないじゃん」
「いや……待って。
君、さっき「お礼」って言ってなかった?」
「それはボタン代ですねぇ~。
糸代と技術代は別料金です」
「…………ちゃっかりしてるな…………」
勝手にやっておいてこの言い分。
『当然でしょ』とにじみ出るその態度に、こうべを垂れつつ舌を巻く。
別に、金を払いたくないわけではないが、なんとなく『してやられた感』が否めない。
内心(ああ、さっきから調子が狂いっぱなしだ)と苦々しく呟く彼の前、ミリアは左の方から大きめの台帳をひっぱりながら口を開けると、
「言っておくけど、これでも大特価!
あ、お金ないならツケておくよ? お名前は?」
「…………いや、金ぐらいあるよ」
台帳にガラスのつけペンの先をぐっと押し当てるミリアに、静かに首を振る。
その表情は今も『やられた』感が否めないが、仮にもサービスを受けている。
これを踏み倒すほど金に困っちゃいないし、踏み倒すなんてエリックのプライドが許さなかった。
────それに。
(この女にこれ以上、つべこべ言うのも面倒だ)
この女、ああいえばこう言うし、言葉の切り返しだけはとても素早い。下手に言い返して話が長くなるよりも、ちゃっちゃと払って早く引き揚げたかった。
────気分は乗らないが。
(────……払えば終わる)
そう、自身に言い聞かせ、小さく息を吐きながら、財布から紙幣を引き抜く。
「はぁい、どうも♡」
ぺらりと渡された紙幣を受け取った彼女はご満悦だ。
……彼はいまだに、悪徳商法にでも引っかかったような気分なのだが。
「…………」
ひらりひらりと紙幣を下に仕舞い込む彼女に、息をついた。
なんとも居心地が悪かった。
声を張り上げた自分もそうだし、勘違いをした自分もそうだし。
(…………ああ、こんなはずじゃなかったのに)
と、エリックがくるりと身を翻そうとした、その時。
「で、お名前は?」
「…………いや、今払っただろ?」
彼女の声かけに、思わず振り向き言い返した。
『ツケ』ではないのなら、名前の記入など必要ないはずだ。
これ以上彼女に用はないし、名を名乗る義理もない。
しかし縫製店のミリアは、先ほど開いた台帳を指でトントンと指しながら、ハチミツ色の瞳を向けて言うのである。
「お直しリストに書かなきゃなの。
ほら、ここ。書いて?」
「…………ああ。はいはい。
…………なら、先に言ってくれないか?
いきなり言われても混乱するんだけど」
「”お直しリストに記載が必要ですので、お客様のお名前をお書きください”」
眉をひそめ愚痴りながらペンを手にするエリックに、丁寧な文言を並べるミリア。その言い方にはきちんとトゲが混ざっている。
彼女の返し方に湧いて出た、僅かな苛立ちをぐぐっとペンの先に込め、つっけんどんをそのままに、エリックは口をあけ、
「…………………………住所は」
「ツケじゃないから必要ないよ~」
今までの記載を目視で確認し、念のための質問を頭で受けながら、よそよそしい返しも溜息で流して、彼は台帳にペンを走らせて──
「…………『エリック・マーティン』さん」
「………………、なに?
そんなにじっと見て」
「…………いや? 別に何も?」
台帳をじっ……と見つめ呟く彼女に
エリックは眉間にシワを寄せて問いかけてみるが──彼女は静かに首を振っただけ。
(スペルでも間違えたか……?)とエリックが不思議そうに確認しようとした、その時。
──ぎっ……、ぎいぃぃい……っ
『──?』
彼の背後。
しばらく沈黙していた入り口の扉が、ぎぃっと軋んだ音を立て『彼女』は、よたよたと姿を現した。
「……こんにちわぁ」
「──あぁ! ロべールさん!」