ミリアは、青年『エリック』に背を向けて、心の中でポッソリと呟いた。
(……お金持ってなさそうだもんなー
あれはきっと
目の前にそそり立つ『糸の壁』に向かって息をこぼす。
『金にならない』と判断をつけた瞬間、商売人はとてもシビアだ。
しかし、口には出せない。
流石に出せない。
彼女もそこまで馬鹿じゃない。
出会ってすぐの人物に対して『金持ってなさそうだね!』などと、相手が相手なら殺されてもおかしくないのだ。
だかしかし。
ミリアがそう思うのには理由がある。
彼女は、着付け師だ。
客の体格や雰囲気、好みなどを聞き出し、総合的に提案するファッションプランナー。
毎日、布状態のものからアクセサリー小物まで取り扱っている、いわば『服飾のプロ』である。
毎日見ているのだから、行き交う人々の服や道具などから、大体の身分位の見当ぐらいつけられる。
むしろ、付けられなければ話にならなかった。
まあ、一口に身分と言っても様々ではあるのだが、金から浮き彫りになるその「格差」は、身だしなみにこそ如実に出る世の中である。
助けてくれた人間にこう思うのは、失礼に値するのだが────
ミリアの目から見て、彼は間違っても金を持っているような恰好はしていなかった。
シンプルな襟シャツに、ありふれたベスト。
履いている黒のパンツも、その辺りで買える。
いわば『浮かないスタイル』。
高貴な人々が身につけるものは一切ない。
腰に巻き付けた革のベルトと、そこにぶら下がる短剣を納めた鞘は…………まあそれなりのつくりだが、これはどれも同じようなものである。
どこにも『金持ち』──
ロイヤル
────しかし、靴だけ。
靴だけが引っかかった。
どう見ても本革。
手入れもされている。
おそらく仕立ては一級品だろう。
外目から見ても仕立ての違いが明らかにわかる上、何よりその紐穴に『アイレット』という補強金属とフックまでついている。
この、アイレットとフックが『また』。
高級品の証なのだ。
ミリアの目測、それは『普通に買っても十数万メイルはくだらない』。
なので密かに『金持ちの息子か何かかな』と思いもした、のだが。
(────金持ちの息子が『こういうところに来たことない』ってことはないわなあ……)
首を捻って却下する。
目の前にそびえたつ、巻き糸の壁に新しい糸を加えながら、唇を平たく潰してそう思う。
(この国で? 貴族の息子が?
工房に来たことない?
ないないない、そんなのありえない)
心の中で、好き放題首を振る。
それも、そのはず。
彼らが暮らす『シルクメイル地方・ノースブルク諸侯同盟領』はファッションの国だ。
中でも『ここ』。
オリオン盟主が治める『ウエストエッジ』は、聖地の隣にあり『女神のクローゼット』と呼ばれている。
『女神のクローゼット』に仕立て上げたのは、稀代のモデル『ココ・ジュリア』。
国交と文明の発達の中誕生した、ファッションの広告塔がその発展を促してきた。
ジュリアの功績はとても華々しく、戦後落ち込みがちであった服飾業界に花を添え、流行をもたらし、国中にドレスや服の花を咲かせた。
要するに、『選りすぐりのファッションのメッカ』なのである。
よほどの貧乏人でない限り、民は皆 それなりの装いをして歩いているのが普通だ。
近年の流行りは、男性服は『紳士かつ動きやすく』、女性服に至っては『エレガントかつ可愛らしく』。
女性はふんわりとしたワンピースドレスやスカートを身にまとい、男は襟シャツにパンツという──まさにエリックが身に着ている恰好をしている男性が多い。
それでも質は様々で、安物はそれなりだし、高いものは見ればわかる。
特に金持ちは装飾や刺しゅう・裏地などにこだわり、上質なものを身に着け、金をかけるのだ。
──そのため、見る人間が見れば、一発でわかる。
『こいつ金持ってるな』と。
そんなファッションの聖地なのだから、縫製工房やスタイルショップと民は、わりと密接な関係にあるのだが──……
(……確かに~
うちみたいな
……「
パンパンの布棚を整理しながら、ミリアの疑問は止まらない。
彼の様子からして、こういう工房に入ったことがないのはおそらく本当だろう。でなければあんな風に、圧倒されたような顔つきはできない。
だからこそ不思議だった。
それなりの家庭なら、成人した時に服を仕立てるはずなのに。
そしてその辺の小金持ちなら、男性も女性も、店に来ては普段着をセミオーダーで仕立てていくのに。
彼は言った。
『工房に入ったことがない』──と。
そんなことは『考えられない』。
『ちょっとありえない』。
紳士服のテーラーと、ドレスショップでは多少の違いはあれど、どこも似たようなものなのに。
(………普通、小さなころに連れてこられるとか、親の用事でタイやリボンを取りに行くとかあったりするじゃん? ボタンの付け替えを頼みに来るとか、リサイズだとか、来る機会ならいろいろあると思うんだけどなあ……?)
「…………うーん……」
“普通に暮らしていて”、“このような店を利用することがない”というと────?
(……アッパークラスの貴族か、ロイヤルクラスの王族か……
それともどうしようもない貧乏人か。
……そのどっちかしかない、と思うんだけど)
呟きながら、彼の様子をちらり。
気づかれないように伺った顔は、今は棚に飾られたコサージュに向けられていて、こちらの視線には気づいていない。
(────
……
…………ってことはないでしょ。
天下のお上様がこぉんなところ歩いてるわけがないし、ああいう人にはお付きがいるし)
横顔を盗み見て、さっと視線を棚に戻し、抱えた布で綺麗なグラデーションを作っていく。
(……仮にアパロヤだったとして……、
いやいや、こんな失礼なアッパーロイヤルいる?
ソッコー付き合いに亀裂入りそうじゃない?
うーん、まあ、居ないってこともないかあ)
頭の中。
よぎる『今まで対応した貴族をはじめとするアッパークラスの皆様』。
(……いや~でもなあ。
アッパーって感じがしないんだよな~、あの人。
アッパー特有の『ボンボン感』が感じられないんだもの。)
振り向き様、ちらりと盗み見る彼の顔。
トルソーのワンピースを眺める青年の表情は、今はとても綺麗なのだが……それより先ほどのイライラ顔の方が印象に深かった。
(そもそも、
アパロヤ様は商店街で喧嘩の制裁なんかしないよね?
『喧嘩を止める』って発想がなさそうだよね?
仮にお付きの方がいなくても、見て見ぬふりをするとか『野蛮なクズめ』『嫌だわぁ……』って立ち去るじゃん。
……か~と言って、
貧乏人にも見えないんだよね~
服はともかく、靴はどう見てもイイヤツだし)
ぶつぶつ。
ぽそぽそ。
手を動かしつつ回る頭。
(ん~…………じゃあ、あれか?
頑張って働いて、靴だけ良いやつ買いました系かな?
あー! それなら納得~!
カッコつけっぽいしー!
まだ全然若そうだもんね、22歳ぐらい?
あるある、そういう時期あるあるぅ。
きっとお給料貯めて買った系だ、あのブ~ツ~!)
愉快に勝手に想像し、勝手に自己完結。
他人様に迷惑をかけない範囲でのそれは、ミリアの得意技だった。
(……あとはそうだなあ~。
もしかしたら、どこかのお家に仕える使用人なのかもしれないな? 容姿はいいみたいだし、お屋敷の
あ、あれだ わーかった!
『あまりにみすぼらしい格好はさせられない』って、家主さんが服を支給してくれてるーとか!
あぁー! それありかもー!
きっとそれー! わたしあったま
「…………なあ」
「────はいっ!」