雪が融けないと噂だった花刹山に、春が来たという話は、絵森郡中を、果ては日ノ本中を駆け巡る。人々の口に戸は立てられない。噂は七十五日とはよく言ったものだが、春の桜や藤が咲く花刹山に目を奪われる者は多く、その度にまた噂は流れる。
――濡卑の一座と雛原の民が、雪童の加護を得た。
――手を出したら、雪童に祟られる。
――だから、何人たりとも、決して手を出してはならない。
麓のいくつかの村では、既に常識のように語られるようになった。また時折山を下りてくる、新しい村――花刹村の者とは、加護に預かれるとして、交易を喜んで引き受けてくれるようになった。落葉村の人々の濡卑に対する認識も変化したが、花刹村の者達は、そちらにはあまり行かない。また黒装束の濡卑を見て、狐面の下にあったのは、ただの人間の顔だったのだという噂すら語られる。既に誰もが、腐肉については語らなくなっていた。
あるいはそれは、悪意ある言葉を放って、雪童に祟られることを恐れてかもしれないが、それでも構わない。花刹村は、少しずつ大きくなっていくのだから。
――ただし、雪童がいることは、決して忘れてはならない。
「と、このように噂を流しておきました」
そう言って昭唯が笑った。
思わず吹き出して笑った透理は、新しい森羅寺の境内で、昭唯と並んで立っている。寺は小高い場所にあるので、新しい村が、みんなで作った村が、よく見える。
完成しつつある村や畑を見ながら、透理はチラリと昭唯を見た。昭唯もまた、透理を見ていた。
「貴方も大分村長らしくなってきましたね」
「そうかもな。昭唯のおかげだ。皆をまとめる時、いつも手伝ってくれるものな」
「もっと私の功績を認めてください」
「うん。感謝してる」
「っ……素直に言われると照れますね」
それから透理は昭唯と視線を合わせる。そしてどちらともなく破顔した。
このようにして、二人の新しい日々は、静かに始まった。それは穏やかに、幸せに。
「ところで、透理」
「なんだ?」
「――帰ったら気持ちを教えてくれるのでは無かったのですか? もう一冬越してしまいましたが」
「それは……バタバタしていたから……というのは、言い訳だな」
透理が苦笑する。それから立ち上がり、階段を降りてから、昭唯の正面に立った。すると昭唯も立ち上がり、降りてきて透理の隣に立つ。少しだけ己より背が高い昭唯を、透理は小さく見上げる。
――母の遺言の通り、父親に会えた。硝子玉を渡すことが出来た上で、持っていて欲しいと乞われたから、今も手元に持っている。
――帝に直訴することも出来た。父が帝だったのだから。天領覚書は、既に広まっている。それは昭唯が噂を流す前であり、濡卑の差別の解消に一躍買ってくれたのは間違いない。
そして……この命題が叶った今、もう己は病まで治り……自由に恋をする権利を得ている。それが泣きそうなほど嬉しい。やっと、想いを告げられるのだから。ただ、上手い言葉が思い浮かばない。
「昭唯……その……もう一度聞いてくれ」
「ああ――私の事を、どう思っていますか? 『好き』か『愛している』か」
「……選択肢が無い」
「えっ、まさかの『嫌い』だなんて……?」
昭唯が衝撃を受けたような顔をしたので、慌てて透理が首を振る。その頬は朱い。
「そうじゃない」
「あ」
すると思い至った様子で、ニッと昭唯が笑う。
「私を、『恋人』だと思ってくれているのですか?」
その声に、俯きがちに、小さく透理が頷く。恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
「……思ってる。昭唯、俺の恋人になってほしい」
「どうしましょうか」
「え……?」
すると今度は昭唯から、とぼけるような声が返ってきたものだから、虚を突かれて透理が顔を上げる。
――もう、自分の事を嫌いになってしまったのだろうか? あるいは、無関心?
一冬という時間は長かった。村の雑事をしているとあっという間だったが、気が変わることは十分あり得る期間だ。
「私は恋人よりも、伴侶になりたいのです。万象仏教は、同性婚を認めておりますしね」
「なっ!?」
その言葉に驚いて、透理は目を丸くする。脳裏で意味を咀嚼すると、今度こそ赤面してしまい、両手で顔を覆った。今もなお黒装束姿で、側頭部には御先狐の面があるのだが、今、尋常では無くそれを正面に回したい。
「透理が私のものだと、触れてまわりたくて。彩様だとか、あの辺りに、きちんと分からせておきたくて」
「? 彩がどうかしたのか?」
「いいえ、別に嫉妬していたわけではありませんよ。しかし嬉しいものですね、相思相愛とは。透理、抱きしめても構いませんか?」
「あ、ああ……」
透理が答えた時には既に、昭唯は透理を抱きしめていた。その腕の中で、真っ赤になってから、両手で透理は昭唯の腕に触れる。その後、おずおずと昭唯の背中に腕を回し返した。その時、昭唯が透理の耳元で囁いた。
「今夜は寝かせないので、覚悟しておいて下さい」
そして右耳の付け根に口づけられた時、いよいよ透理は真っ赤になったのだった。
春の夜は、桜が月明かりに照らし出され、とても綺麗だ。
舞い散る薄紅色の花弁を、寺の二階の客間の窓から眺めつつ、透理は布団に寝転んで、膝を立ている。一糸まとわぬ姿の透理の後孔を、椿香油でじっくりと解した後、ゆっくりと昭唯が挿入した。二人が体を重ねるのは、日高見国での一夜以来だ。それぞれ多忙で、二人きりになる時間が無かったと言える。
透理が切ない声を零す。それを優しい目に、獰猛な光を宿して、捕食者のような眼差しで昭唯が見ている。
――このようにして、二人の恋は実ったのである。
以後、四季が巡るようになった花刹山の中腹の村では、仲睦まじい村長と法師の姿が見られるようになり、周囲が祝福する度に、いちいち透理は照れて真っ赤になったのだとか。
もう濡卑としての旅路は終わりであり、透理は安住の地を手に入れた。それは、昭唯の隣である。いいや、腕の中だろうか。幸せに満ちた初夏が、出会った季節が巡ってくる頃には、二人の祝言が控えている。花刹村が出来て初めての婚姻をする二人は、今日も幸せそうだ。透理は山道を歩きながら、チラリと昭唯を見る。
「どうかしましたか?」
「い、いや……その、好きだなと思って」
「私の方が愛の比重が深いこと、お忘れのようですが?」
「そ、そんな事はない!」
「あります」
「ない!!」
「あります」
そんな言い合いをしてから視線を合わせ、透理は破顔した。
嬉しくなって、透理は瞼を伏せつつ、幸せを噛みしめる。隣を進み、手を繋いでいる昭唯の温もりに浸りながら、しっかりと透理は目を開けて、前を向く。これが、透理の新しい始まりとなった。
―― 了 ――