透理は飛び込むように入った先で、姿勢を正した。
正面に人がいる。見た事の無い服を着ていた。首元まで伸びた服、シンプルで模様の無い橙色から黄緑色に変わる服、まるで異国の服のようで、腰のとこで細い帯で留められている。だがそんな服装よりも、透理はその人物の顔に驚愕した。己とうり二つだったからだ。年齢も全く同じ年頃に見える。背丈も同じ、手足の長さもそうだ。違いは、己が黒装束に狐面と言うだけだ。そこで思い出し、透理は面を外して後頭部に回した。
すると無表情のその人物が、声を放った。
「派手に遊んでいたようだが……ああ、その顔……それに隠力色。透理か?」
己の名前を知っていることにも驚く。声まで自分と同じように聞こえた。
「……はい。俺は透理だ。貴方が俺の父上ですか? ギオン様か……?」
透理は恐る恐る、窺うように声を出す。
「いかにも。して、何用だ? わざわざここまで来たのだから、なにか用があるのだろう?」
「――まずは、これを。花刹山の雪童、彩から預かりました」
懐から、大切に持っていた勾玉を取り出し、歩み寄って透理は差し出した。すると一瞥したギオンは、顎で頷いてから、長い指でその勾玉を受け取った。そして掌に載せて握ると、温かな音が響いた。耳に入った瞬間、透理の脳裏に、春夏秋冬の光景が過った。不思議に思って、透理は眉を顰める。
「ふむ。『まずは』か? 他にも何かあるのか?」
ギオンのその言葉で、我に返る。透理は続けてた。
「お願いがあります」
「申してみよ」
退屈そうなギオンの声。一度長く目を伏せてから、しっかりと瞼を開き、透理は真っ直ぐにギオンを見据えた。力強い眼差しで、決意の色が滲んでいる。
「彩を解放してほしい」
「解放?」
ギオンが気怠い空気を放ちながら小首を傾げた。
「貴方が主だと聞いた。つまり、貴方がもう仕事をしなくていいと命じれば、彩は好きに生きられるはずだ」
透理が述べると、ギオンが腕を組む。そしてゆっくりと二度瞬きをしてから、再び、今度は大きく首を傾げてじっと透理を見た。その場に沈黙が横たわる。そこに生まれた時間は、透理にはとても長く思えたが、一瞬のことだった。
「それはまた愚かな考えだな。不自由であっても、決められた通りに動く方が、人は楽だ。お前もそうだったのではないか? 濡卑として、規則に押し込まれた生活、それから解放されても、どうしてよいのか分からなかったのではないか?」
「っ」
何もかも見透かすような声音だった。
ギオンの言葉が耳に入った瞬間、透理の胸がギュッと締め付けられたように痛んだ。
確かに己も迷ったことがあるからだ。
たとえば――恩返しをしたいと思ったけれど、どうしていいのか分からなかったではないか。だがそう考えた時、透理は自分の考えを逆に確固たるものとした。
「……俺は、迷ったこともありました。だけど、今俺は、一緒にいてくれた昭唯や、濡卑の一座の皆、雛原村の人々と出会い、そして彩に助けられて変わったんだ。俺は、助けてくれた彩に恩返しがしたい。だから、もし彩が迷ったら、俺が必ず道標になる。きっとそんな俺を、昭唯だって手伝ってくれるはずだ」
きっぱりと言い切った透理を、暫しの間、ギオンは眺めていた。
それから右手を緩慢に持ち上げて、掌を見る。そして目を伏せてから、嘆息した。
ゆるりと流すように、再び透理に視線を向ける。
「そうか。ならば少し私と遊んでくれたのならば、解放方法を教えるとしようか」
「遊ぶ……?」
今度は透理が首を傾げる番だった。
「その黒装束、お前は忍びなのだろう? 忍びは、地上において唯一、隠力を用いる術がある。日高見の血を引かなくとも、妖陣を構築できるだろう? あれは元々は、隠力だ」
「隠力とは一体……?」
困惑しながら、透理は疑問をぶつける。
「私とお前が全く同じ色と指数を持つ、特異な能力だ。音を具現化し、糸のように扱うのが初歩だ。だが、ギオンの名前を襲名する者は、違う。『擬音』の名に相応しく、本物が無いにも関わらず、音を用いて存在たらしめる能力だ。たとえば、このように」
ギオンが両手を広げるように前に出した。
するとそれぞれの掌から、光糸が出現した。驚いて、透理は瞠目する。
生じた光糸が、ギオンの腕へと絡みついていく。そしてどんどん光糸が生まれていく。光を放ちながら、糸が室内に広がっていく。輝くような光糸の姿は、幻想的ですらあった。
透理が天井を見上げていると、天井の左右で光糸が収束していき、それぞれ首の長い龍の形になった。水神として知られる龍だ。腹が見え、開いた口には牙と赤い舌が見える。瞳は大きなつり目で、眼光が鋭い。蠢くように下には光糸があり、足は無い。
ギオンを中心に、双頭の巨大な龍が出現したように見える。
「透理、お前にこのように隠力が使えるか? 使えなければ、ここで死ぬがよい」
直後、二匹の龍が襲いかかってきた。
透理は飛び退きながら、このような怪異は、己の忍術では倒しようがないと考える。
焦燥感に飲み込まれた透理は、何度も木の床を蹴って待避した。だが、龍の口が迫りくる。二匹が透理に向かって大きく口を開けた時、そこにも光糸が発生した。それは球体に代わり、透理に向かって放たれる。別の光糸は透理の足と腕に絡みつき、動きを封じた。
透理の体に、光糸で出来た球体がぶつかった。
瞬間、頭の中で大きな音がした。
大声で呪詛を吐く声。金切り声。混じった禍々しい音が溢れかえり、透理の脳裏を埋め尽くす。耳を押さえて、その場に透理は蹲り、唇を震わせる。
「分かるか? これは絶望の音だ」
硬直した透理の体を、光糸が傷つける。腕に傷が付き、服が破れる。血が垂れていく。痛みに透理は唇を噛む。
その時再び、球体が透理にぶつかった。
すると辛いと泣き叫ぶ声が、脳裏を埋め尽くした。
「これが、悲愴の音だ」
次の球体が、透理の体にぶつかると、再び音が透理を苛む。
「これは、失恋の音だ」
「っ」
音に飲み込まれそうになっていた透理だが、ギュッと唇を引き結び、次に来た球体を避ける。絡みついていた光糸は、クナイで切り捨てた。
――光糸は、忍術においては、妖陣から出現するものだ。
この前、昭唯が絡め取られた時だってそうだった。
ならば妖陣を応用すれば、隠力というものに触れることだできるはずだ。
――冷静になれ。
透理は己に言い聞かせる。
するとドクンと心臓が高く啼いた。まるで三半規管に心臓が接着しているのかと思うほど、ドクンドクンと動悸が大きく聞こえる。その時、透理はハッとした。自分にぶつかってきたものは、全て音を持っていた。そしてギオンは、音で存在を創り出せると言った。ならば、この鼓動の音だって、使えるかもしれない。透理は攻撃を避けるのをやめ、きつく瞼を閉じる。そして心臓の音に耳を傾ける。早鐘を打っている鼓動の音だけに、集中した。
次第にそれが大きくなっていくのを感じる。
自分は、生きている。それは、みんなのおかげだ。優しくしてくれた、皆の。
一人一人の顔が浮かんでくる。孝史や馨翁、三春や嘉唯。そして――昭唯。紛れもなく、今は言える。昭唯は自分の恋人だ。
透理は音に思いを込めるようにし、掌に光糸が収束する姿を想像した。
母から預かった硝子玉から聞こえる音色を参考にする。
そして目を開けると、蹴鞠のような光糸の塊が生まれていた。
触れていると、鼓動の音が響いてくる。そして温かい気持ちになる。これは、みんなが自分に教えてくれたものが奏でた音だ。透理はその球体をギュッと握る。
そして真っ直ぐにギオンを見据えた。
「これは――」
「ほう、具現化出来たか」
「これは、優しさの音だ!」
龍に向かって透理が球体を放り投げる。すると、それは虎になり、龍の首を食いちぎった。二体を次々と噛み、牙を立てた。少しずつその部分から金色の光となり、龍の体が消滅していく。最後に虎は、ギオンに向かって飛びかかった。
だが手を前に出したギオンが、そこに空気の壁を作った。リオンが宙を歪ませたように、ギオンもまたその場を歪め、透明な膜を構築したようだった。虎が空気の壁で制止する。ギオンは、虎に手を伸ばし、その鼻を撫でた。
そして――ふっと優しく笑った。初めての表情変化だった。
「ああ、優しい音色がするな。恵まれて育ったのだな、透理は」
「……ああ。俺は、恵まれています」
はっきりと透理が答えると、頷き、それからまじまじとギオンが透理を見た。
「静子は元気か?」
突然口から離れた母の名に、透理は言い淀む。
「……一昨年、亡くなって……。これを、父上に渡して欲しいと」
透理の声を聞くと、ギオンが今度は辛そうに顔を歪めた。それから、透理が巾着を差し出すと、静かにギオンが受け取った。
「ああ……これは、私が静子に贈ったものだ。生まれてくる透理に、私は何かを残したくてな。いつか、会いたいと願って、透理が生まれたらこれを持たせて、私を探して欲しいと静子に頼んだんだ。そうか、覚えていてくれたのか」
「……そんな事が」
「ああ。それと私は、ここに彼女を伴いたかったのだが、神子であった静子は、濡卑を見捨てられないと、私を振った。失恋した私は、ギオンの名を襲名して、長らく静子のことも、子が出来たら透理とつけてくれと伝えたことも、忘れられなかった」
「っ!」
「忘れたことは一度も無かった。だが、新しい愛を見つけて、今の妻と添い遂げることにした。そして授かったのがリオンだ。お前の名の『理』のあとに、しりととりのように続く名前を付けた」
透理が目を見開く。
「そして将来ギオンになる――帝となる後継者は、皆『音』と名前に入れるから、それを併せてリオンとしたんだ。理音と書くんだ。仲良くしてくれとは言わないが、まさか私よりも先に会って、喧嘩をしているとは思わなかったぞ」
苦笑するようなギオンの声は優しいものだった。透理は肩から力を抜く。全身にびっしりとかいていた汗が、引いていく気がした。どうやらもう、『遊び』は終わったらしい。
同時に、『帝』という言葉に、透理は目を見開く。
「父上が帝なのですか?」
「ああ、そうだが?」
「っ、もう一つお願いがあります。どうか天領覚書にて、濡卑への差別を撤廃して頂けませんか? 雪童の彩様のおかげで病は治りました。けれど、差別がすぐ消えるわけでは無いと、俺は思って……もう罰を与えないように、反抗しても極刑にするような事が無いように、周知して頂けませんか?」
「――ああ、構わない。約束しよう。息子の頼みだからな。そうか、私はもっと早くに、そうしていればよかったな。自然の摂理に任せて、放って置いたのだが……濡卑の苦しみを瞋恚は理解していなかったのだろうな。だから、ついてこないという静子の気持ちも、汲めなかったのかもしれない。こちらで新しい愛に出会えたのは幸いだが……」
「……母上も、新しい愛を見つけて、俺にはそちらの弟もいます。三春といい、母にそっくりで、今は三春が神子をしています」
「知っている」
「――え?」
その言葉に透理は驚いた。思わず首を捻る。
「兄と師が心配だと言って、先刻この御所入ってきたのだが、透理とお前の……恋人はリオンと遊んでおったから、私のところに直接通した。今は隣室で菓子を食べているぞ」
恋人という語に息を呑みかけたが、それよりも昭唯の事が心配で、透理は想わず声を上げる。
「えっ! って、あ……昭唯は!?」
「さぁて。放っておけ。その内こちらへ来るであろう。私達も菓子を食べるとしよう」
「……、……俺は、昭唯を連れてきます」
沈黙を挟みつつ透理が述べると、くすりとギオンが笑う。
「そうか。優しいのだな。お前自身も」
「いいえ。優しいのは、昭唯です。俺の大切な恋人なんです」
「親しいのだな。ならば、行くがいい。戻ったら、雪童の民の解放方法を教えよう」
その言葉に頷き、透理は踵を返す。そして扉をくぐった。