――新しく陽が昇り、窓から白い光が差し込んでくる。
いつもより遅い時間に目を覚ました透理は、時計を見上げ、午前六時であることを確認した。
「思ったよりも、疲れていたみたいだな……」
肉体的な疲労というよりは、精神的な疲労が大きい。だがじっくりと瞼を伏せて考える。濡卑として各地をまわった時に向けられた忌避するような眼差しを一身に受けていた頃と比べるならば、新しい土地で見る瞳は優しい。
ふと、考える。
もしも、三春や嘉唯――なによりも、昭唯を伴っていなければ、己は自分が濡卑であることを誰も知らない上に、まるで極楽としかいいようがない、ぬるま湯のようなこの国に、安住することも考えたのではないかと。
「いいや、それはないか。俺は濡卑のみんなの元へ帰らなければ。それに二人と昭唯を絶対につれて戻る」
ぽつりと呟いてから、隣の布団を見て、思わず目を丸くした。
そこに寝ているはずの昭唯の姿が無かったからだ。
「一体何処へ……?」
丁度、そう呟いた直後、部屋の扉が開いた。そこには錫杖を手にした昭唯が立っていて、目が合うと微笑された。
「おはようございます」
「ああ」
「調べてきたのです、ギオン様について」
自信ありげな笑みを浮かべている昭唯は顎を僅かに持ち上げて、透理を見る。その表情を見て、小さく透理が頷く。
「教えてくれ」
「ええ。幾人かの土童と通行人に聞いたのですが、皆共通して、『ギオン様は御所にいる』と話していました。位置も聞いたので、ちょっとした見学のつもりで見に行ったのですが、それこそ桜が咲き誇る中にある華族とやらが住んでいそうな邸宅がありました。ただ、彩殿が用いていたような不可思議なものが門や扉があるように遠目からでも分かりました」
昭唯がそう言うと真面目な色を瞳に浮かべたのを、透理は見た。。
それから昭唯が、透理の前に座り直す。
「私が聞き取りをしたところ、御所に入るには二つの条件があるそうです」
「条件?」
「ええ。まず第一に、隠力指数が八十以上か、陽力指数が七十五以上でなければ、そもそもお住まいに入れないそうです。私と嘉唯はクリアしています。仏門では陽力の指数測定がありましたので。また神子である三春も大丈夫だと考えられます。神子は仏門に残っていた資料によれば、単純に障りが無いからではなく、陽力による適正を判断して、前任者に指名されるそうですので。貴方は……まぁギオン様の子供なのですし、指数も同じだというのですから大丈夫でしょう」
透理は、自分が入れるのかという部分に不安を抱いた。だが頷いて、続きを待つ。
「第二に、『殿上人』と呼ばれる、立ち入りが許可されている人間の紹介状が必要だとのことです。【通行手形】という名前だそうです」
「通行手形? それはどんな品なんだ?」
「透明な紙のような品だそうですが、それ以外分かりませんでした。『殿上人』が所持しているとは聞きましたが」
「とりあえず、『殿上人』を探して、調べるか」
透理が述べると、再び昭唯が自慢げな顔をした。
「それは聞いておきました。ここから一番近い殿上人のお屋敷は、角を曲がった先の巨大な家だとのことです。丁寧に家の前まで連れて行ってくれました」
「あまり派手な行動はせず、慎んだ方が良いんじゃないか? それも親切な通行人が連れて行ってくれたということか? いいや、土童か?」
不安になりながら透理が尋ねると、笑顔のまま昭唯が首を振る。
「たまたまリオンと再会したんです。彼は犬の散歩の途中だったようです。向こうから私に声をかけてきてくれて、とても親切に教えてくれましたよ」
透理は昨日出会った少年のことを思い出した。
同時に――昨日睨まれたことも想起する。
「……」
だが、気のせいかもしれない。
それに今は、他に有力な情報も無い。なので透理は頷く。
「分かった、そこへ行こう」
「ええ、そうしましょう」
「ありがとう、昭唯」
「いいのです。私は貴方の相棒なのですから、このくらいはしませんと」
冗談めかしてそう言って笑った昭唯に対し、自然と笑みが浮かんできたので、透理も小さく笑って返す。昔は、めったに動かなかった表情筋が、最近は自然と仕事をする。
「さて、嘉唯と三春を起こしましょうか。きちんと待っているように言い聞かせなければ」
「そうだな」
「そして朝食としましょう」
昭唯の提案に頷き、透理は三春に近づく。そして揺り起こす。昭唯は嘉唯に声をかけている。
「ん……」
三春が起き上がり、目を擦る。その頭を軽く撫でた透理は、それから立ち上がり隠力倉庫へ向かって食事の用意をした。毎日食料は自動的に補填されるようだ。ただ、特に肉類は、本来濡卑と一部の猟師しか食さないものであるから、『豚肉』や『牛肉』は特に不審だと思った。『鶏肉』も、鶏から卵は手に入れるが、食べ物という印象があまりない。濡卑は生きるために何でも食べてきたが、一般的な人間――特に清貧な生活をしていただろう僧の昭唯と嘉唯は食べないだろうと透理は考える。
「このハンバーガーというのが、私は気に入りました」
「えっ」
明らかに肉がはさまっている不思議な食べ物を、ひょいと透理の隣に立ち昭唯が手に取った。唖然としていると、それを手にテーブルへと昭唯が向かった。続いてやってきた子供達二人は、そろって『オムライス』と書かれている皿に載った卵を焼いたようなものを持っていった。
「……」
皆、勇気がある。もう毒が入っているとは思わなくなったが、透理はは複雑な気持ちになりながら、煮魚と白米を手にテーブルについた。こうして食事が始まると、昭唯が二人に説明を始めた。そして冷静な表情で、強く言う。
「――ということで、私と透理は少し出かけてきます。貴方達は、ここで待っていて下さい。いいですね? また迷子になんてなったら、帰る時においていってしまいますよ?」
「うっ……師匠……おいていかないでくれ!」
「嘉唯。貴方は、三春を守ってここにいればいい。そうすれば、必ず私が貴方を地上に連れ帰ります。師匠の言葉が信じられませんか?」
「そ、そんなことはない! 分かった。俺は今日は三春を守ってる! だから絶対に帰ってこいよ!」
「勿論です」
そんなやりとりをしてから、昭唯が優しい笑顔を浮かべた。嘉唯が真剣な面持ちで頷いている。すると横で匙を手にしていた三春が細く長く吐息した。
「透理も、ちゃんと帰ってきてね」
「ああ。三春、三春も嘉唯が外に出ようとしたら、引き留めるという大切なお役目を果たしてくれるな?」
「――うん。ずっとお話してることにする。それが僕に出来ることだから」
三春も納得してくれた様子なので、透理は安堵した。
こうして食後、透理と昭唯は、嘉唯と三春に見送られて宿を出た。
正面の通りに出ると、本日は雲が多い空だった。だが青空なのは間違いなく、晴れている心地の良い陽気だ。桜が咲いているのだから春なのだろうが、こうして立っている分には季節を感じない。
「行きましょう。案内します」
歩き出した昭唯の横に、透理が追いつく。昭唯はいつも余裕ある素振りで、ゆったりと歩く。透理もそれに合わせる。そのようにして二人は通りを進んでいき、日が昂くなる頃、角を曲がってその突き当たりにある、白い壁にに囲まれた瓦屋根の邸宅を視界に捉えた。