「この箱の、下に落ちていく感覚……なんだか私は目眩がします」
「……俺もだ」
視界が真っ暗で、上部から何やら光が降ってくるだけだ。糸のような光が、過去の天井に広がっており、それが光を放っている。透理は、忍術の妖陣という紋章を用いる時に出てくる光糸に似ているなと漠然と思った。
その思考が、急に周囲が全て透明に変わった瞬間に途絶した。
箱の四方が、透明になっていて、外が見える。見れば、地下に降りてきたはずだというのに、太陽があった。確かに体感だが夕暮れ時なのは間違いないが、太陽は地上の空にあるものだ。地下の中央に浮かんでいるのは不可思議だ。だが空には、綺麗な夕焼けも見える。次第に青が混ざり始めている。
「これは……」
昭唯が大きく二度、瞬きをし、透理の袖を引っ張った。
「あそこに見えるのは、絵巻でみる昔の華族や都の公家が暮らしているという邸宅では……?」
「分からない。俺にはそういった学は無い……」
「で、では、あちらは? あれは、大名が好む城に見えませんか? ただ……ちょっとそれにしては豪華というか……金色の魚がついていますね……」
「よく分からない。旅をしていても、ああいったものは見た事がない」
「私に一番奇っ怪なのは、あの天にそびえ立つほど巨大な四角い建物です。あれはなんですか?」
「さっぱりだ」
「ですがあちらには、藁で出来た家もありますね……まるで様々な時代が一緒くたになっているかのような……」
昭唯の声に、透理ははたと思い出した。
「彩様は、日高見の人間は、時を巻き戻る民だと話していたな……」
「そうですね。だとすれば、ここには様々な日ノ本のものがあるのでしょう。我々があずかり知らぬ未来や過去のものも存在するのかもしれませんね。果たして言葉は通じるのでしょうか?」
「……どうだろうな」
少なくとも彩とは通じたのだから、大丈夫だと信じたいところではある。
「桜が咲いていますね。地上は秋で、花刹山は大雪ですが」
箱が降りていくに従い、薄紅色の花弁が舞い散る光景がよく目に入ってくる。
桜の木が次第に大きくなっていき、それを見ていると、エレベーターというらしき箱が停止した。
「あ、開けますよ?」
「ああ」
恐る恐るというように昭唯が【開】を押した。
すると正面が二つに割れた。顔を見合わせて、透理と昭唯は揃って一歩前に進む。
初めて降り立った日高見国の地面は、草に覆われていた。現在丸い丘の上に透理は立っている。振り返ると、この場で唯一人工的で異質な箱の扉がぴたりと閉まった。
「……嘉唯達は何処に行ったのでしょうね。あのバカ。ここで大人しく待っているといいと、僅かでも期待した私の方こそ本当のバカですが」
昭唯が呆れた顔で、こめかみを指で解している。
透理もまた肩を落とした。
「二人が心配だ。探すしかないな」
すると昭唯が、錫杖を強く地についた。
「――そのためには、宿を取ったり、情報収集をしたり、食料を確保したりしなければなりませんね。透理はどう思いますか?」
その事実を直視したくなくて、透理は両手で顔を覆った。狐面は後ろに回している。
「俺は完全に自分単独を想定していたから、忍術を用いて一人でさっさと父に会い、日帰りで戻るつもりだったんだ」
「言い訳は結構です。つまり?」
「……なにも用意していない」
やはりなという顔つきで、昭唯が嘆息する。
「私はあくまで地上の通貨は僅かに所持していますが、ここが同一の価値だとは思えません。まずは、資金がいります。それをどうにかしなければ。さぁ、行きましょう」
錫杖をつきながら昭唯が歩きはじめたので、慌てて透理が追いかける。
丘を下っていくと、正面の通りに出た。土が踏み固められている大きな道で、左右には店らしきものがある。ただし、【かき氷】は分かっても、【ホットスナック】は意味が分からず、【イチゴ飴】は分かっても、【アイスクリーム】の意味は不明だった。瓦屋根が並んでいるから、地下には雪が降らないのだろう。空の色は変わっても、天候は変わらないのかもしれないと、透理は考えていた。
「人がいます」
昭唯が立ち止まり、また先程のように透理の服を引っ張った。
透理がそちらを見ると、樽の横に、背の低い白髪頭の男の姿があった。四十代くらいだろうか。昭唯が手を離し、真っ直ぐに歩み寄っていくので、慌てて透理も隣に並ぶ。
「こんにちは」
昭唯がにこやかな作り笑いで、声をかけた。すると男が顔を上げ、小さく頷いた。
「こんにちは。いやぁ、今日は天気がいいねぇ。雪も降らず」
それを聞いて、瓦屋根なのに雪が降ったら、雪が落ちずに家が潰れてしまうのではないのかと、透理は不思議な気持ちになった。昔母に聞いた事があった知識だ。
「ええ、そうですね。ところで、不躾な質問で恐縮なのですが、ご職業は?」
「へ? 僕の職業? 僕は人間だけど? 人間は働かないよね? 働くのは
その言葉に、透理はきょとんとしてから、ちらっと昭唯を見て、また正面に視線を戻した。昭唯が続ける。
「では、どのようにして、収入や食料を得ているのですか?」
「収入? 日高見にはお金はないから、そんなものはないけど? もしかして、暇つぶしに職業体験をしたいって事かな? 変わり者だね。人間は生きているだけでいいのに。食料だって、日高見全体に隠力結界が展開されていて、そこから栄養補給が可能だから、娯楽でしかしないじゃないか。君達、そんなに暇なのかい?」
「え、ええ……ま、まぁ……そ、そんなところです」
昭唯が明らかに動揺しつつも、なんとか取り繕った。すると男が笑った。
「それなら土童に言えばすぐだよ。仕事も飲食物も、なんだって持ってきてくれる」
「――た、たとえば家が無い場合は、家もでしょうか?」
「勿論。当然じゃないか! 気分で引っ越ししたい時だって、すぐだよ」
「ええと……土童は、一体何処にいるんですか?」
「さっきから聞いているとよく分からないけど、君、もしかして頭でも打ったのかい? 土童は、全員が首に黒い革製の首輪をしているから、すぐに判別できるじゃないか。ほら、たとえばあそこに一人いる」
男が指差した方角を、二人は見た。そこにはなんら人間と変わらぬ姿だが、確かに首輪を嵌めた者がいた。
「まぁあんまり記憶が混濁しているようなら、早めに病院に行くといいよ。お医者さんも土童だからね。じゃあ、また」
男はそういうと手をふり、歩き去っていった。
残された昭唯に、透理は困ったように視線を向けられる。
「と、とりあえず、あちらの土童に声をかけましょうか?」
「あ、ああ……他にする事は思いつかない」
こうして恐る恐る二人で歩み寄った。そして透理が緊張して唾液を嚥下した時には、昭唯がまた笑顔になって声をかけていた。
「あの、土童さんですか?」
「はい」
すると彩に似た、淡々とした声が返ってきた。だがこちらの土童の方が、抑揚の無い声だ。
「四人で過ごせる家と、食べ物と飲み物を、用意してもらえませんか?」
昭唯は笑顔のまま、きっぱりと要求した。確かにそれらは必要だと透理も感じるが、ここまでの図太さは持ち合わせていないので、動悸が激しくなる。
「分かった、こっちだ」
すると土童だという青年が歩きはじめた。二人はその後に続く。
土童は、通りを抜けると左折して暫く歩き、その後右折した。
そこには、より大きな通りが広がっていた。
その内の一角に、二階建ての宿屋のようなものがあった。
「ここの二階が今日からお前達の部屋だ。食べ物は、隠力倉庫に入っているから、中に行けばある」
そう言うと、土童は帰っていった。引き留める理由も無かったので、透理は昭唯と顔を見合わせてから、中に入ると決める。一階の扉を開けると、正面に階段があった。そちらの中へと進み、軋む階段を上っていく。二階には一部屋しか無く、畳が敷いてあった。そして箪笥のようなものがあり、隠力倉庫と書かれている。それを開けてみると、中からひんやりとした冷気が漏れてきた。
「飲み物のようですね。水でしょうか」
昭唯は『ミネラルウォーター』と書かれている透明なものを見る。キャップを捻って飲み始めた昭唯に対し、透理が慌てる。
「毒だったらどうするんだ!?」
「――ただの水のようでした。次からは気をつけます」
「……」
先が思いやられるなと透理は思ったが、自分一人では土童に声をかける勇気が出たか怪しいので、やはり昭唯が来てくれたのはありがたいし、その存在は偉大だ。
「食事よりも先に、少し休みましょうか」
「ああ、そうだな。なんだか、疲労感がすごい」
布団が敷かれていたので、二人は隣り合っている布団に入った。移動時間が長かったとはいえ、どっと疲れた一日だった。
透理が天井を見上げていると、不意に昭唯が透理の腕を引いた。
「なんだ?」
「いえ……久しぶりに二人きりだなと思いまして」
「それが?」
「……それが、という事は無いでしょう。拗ねました」
そう言うと、昭唯が不意にのしかかってきたので、透理は目を丸くした。それから頬に朱を差し顔を背ける。
「い、今はそんな事してる場合じゃ――」
「そうでしょうか? 明日には私達は死んでしまうかもしれませんよ? 何があるのか分からないのですから」
「……っ」
それを聞き、思わずおろおろとしてしまい、透理は昭唯に視線を戻す。すると正面から目が合った。するとチュッと触れるだけの口づけをされた。いよいよ透理が赤面する。
「本当にこの方面に免疫がありませんね。そういうところも可愛いのですが」
「な、何を言って……可愛いわけが……俺みたいな大の男が……」
「いえ? 私の中では誰よりも可愛らしいですが? 真っ赤ですよ」
喉で笑った昭唯の眼差しは獰猛だ。透理はぺろりと頬を舐められ、ビクリとする。昭唯の左手が、透理の服を乱しにかかる。
「今日は全て脱がせても構いませんか? もう障りはいいのでしょう? 透理の全部が見たいのです」
その後情事をした。
そして隣に寝転がると、透理の体を抱き寄せた。
そして涙で濡れている目元に口づけてから、透理の体をしっかりと横から抱きしめる。
「……」
やっと呼吸が落ち着いた透理は、腕枕されている状態に、今さらながらに羞恥を覚えた。
「ねぇ、透理? 明日から何があるか分からないのですから、今日こそ貴方の気持ちを聞かせてもらえませんか?」
優しく髪を撫でながら言われ、透理は瞳を揺らして思案する。
気持ちはとっくに固まっているけれど、明日何があるか分からないこと、言えない。そんな風に思う。もし本当の父親に会ったら、己がどうなるのかも分からないからだ。日帰りで帰るつもりだったのは本心だが、何が起こるかは、会ってみなければ分からない。
それに、父親に会えたとしても、その後は帝へと直訴に行く予定だ。
つまり想いを告げたとしても、己は恐らく、離れることになるし、命を落とす可能性がとても高い。だが……恋人にはなれなかったとしても、帝へ会いに旅立つ前に、『好き』だという一言だけでも伝えたい。最近では、その想いを抱えているのが苦しい時さえあるからだ。気持ちを吐露し、受け止めて欲しい。
「……帰ったら」
「ん?」
「花刹山に戻ったら、伝える」
「ほう」
「……それまで、待って欲しい」
小声ながらも必死で透理が伝えると、少ししてから昭唯が微苦笑して頷いた。
「仕方ありませんね。私は貴方のお願いに弱いようです。お願い自体、初めてされたのですが――……いいものですね、少し、切なくもありますが」
そう言った昭唯の腕の中で、この日透理は眠りについた。