目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第14話 恩


 二週間後、誰もが心配していたような毒ではなかったと判明し、透理は安堵していた。


 特に『障り』が軽い者から順に、濡卑の体は回復している。

 今ならば包帯で患部を隠せば、普通に肌の露出がある着物を身に纏う事が出来るほどになった。


 当然そうでない者もいるから、配慮して透理は黒装束のままだ。

 ただ、御崎狐の面を後頭部へと回している時間は、圧倒的に増えた。


 同じくらい、考え事をする余裕も生まれている。

 ここのところ、透理は同じ事ばかり思案していた。


 ――何故彩が、このように、自分達によくしてくれるのかが、分からない。

 ――同情、なのだろうか。


 同情なら、それでよかった。

 純粋に、この恩を返したいと思う。そう思わずにはいられない。


 だが自分にできることはなんだ――?


 近頃の透理は、そんな事を考えては、何度も嘆息していた。


「また彩様を見ているのですか?」


 その時、隣に昭唯が立った。袈裟の上で、念珠が揺れている。

 実際その通りで、透理は、豚汁を作っている彩を眺めていた。


 こんなにも自分達、濡卑に対して献身的に接しくれる彩は、ある意味不可思議だ。様々な発言や持ち物も、よく分からない。


「二人とも座れ。すぐにお茶を淹れる」


 視線に気づいたようで、彩が顔を上げた。

 視線を交わしてから、透理は昭唯と共に囲炉裏端に座る。

 すると彩が、お茶の用意を始めた。


 透理は、何を言おうか逡巡する。先に昭唯がお茶を受け取った。

 慌てて透理も湯飲みを受け取る。


 この界隈ではあまり見ない緑茶だ。ただそもそもこれが、煎じた緑茶だとも思えない。不思議な茶だった。入れる作法も飲み方も、薬草茶に見える。しかし飲めば美味しい緑茶の風味が広がる。点てるお茶をなど、この界隈では大名かその重鎮でもなければ飲む事も生涯ないだろう。ただ彩の手で淹れてもらうお茶は、なんとも心が温まる気がすると、透理は考えた。


 現在は、彩の横――角を挟んで隣に透理がいて、その側に昭唯が座っている。


「皆の具合はどうだ?」


 己の分のお茶を手にして、彩が顔を上げた。


「ええ、全員が快癒に向かっています――そうでしょう? 透理」

「ああ。昭唯の言う通りだ」

「よかったな。まだまだ薬はあるし、薬は作る事も可能だから」


 そう言って彩が、小さく頷いた。


「ありがとうございます。無償で提供して頂けるなんて」


 さらりと昭唯が『無償』と口にしたから、透理は息を呑んだ。

 確かにここから金銭を要求されても困る。


 無論、治ってしまえば夜逃げもできるかもしれないが、彩と諍いを起こしたくはない。

 夜逃げなど、透理の信念にはそもそも反する。

 だが、昭唯のように上手くやるのは苦手なので、本当に助かってしまう。

 そうして――透理が安心したのは、己の心配に反し、彩には気にした素振りが無かったからだ。


「ああ。雪童の民は、人間に尽くすものだからな」


 再び繰り返された言葉に、思わず透理は、彩の手を握った。

 昭唯だけが、首を傾げている。


「彩様」

「なんだ?」


 唐突に透理から声をかけられたからか、彩はもう一方の手で持っていた湯呑みを取り落としそうになっている。


 それを見て、いきなり声をかけたから、驚かせてしまったのだと判断し、慌てて透理が彩を支える。辛うじてお茶は溢れなかった。


「……大丈夫か?」

「ああ。それより、どうかしたのか?」

「その――恩が返したい」

「恩?」

「何か……俺達に出来る事は無いか?」


 実際に、同様の意見は多数上がっていた。

 だから透理は――あくまで個人的な意見ではないから『俺達』と伝えた。

 だが、実のところ……自分一人でも、何かお返しがしたいと透理は感じているほどだ。


「不要だ。雪童の民は、人間に尽くすようにできている」

「なんでもいい。簡単な事でいい。出来る事があるなら少しでも――俺達に触られる事が嫌じゃないのなら。嫌なら嫌だと率直に言ってくれ。別のお礼の形を探す」

「嫌? そうではない、人間は雪童の民に恩を返す必要が無いだけだ」

「何かないか? なんでも構わない」


 透理が言うと、彩が瞳を揺らした。それから目を伏せて言う。


「恩を返すという望みを叶えさせると言うことであれば、何をしてもらってもいい。つまり、何をしてもらっても嬉しいとなるだろう」


 そう述べると、目を開けて彩がお茶を飲み干す。そして立ち上がり、帰っていった。


「なぁ、昭唯」

「なんです?」


 聞き返してきた昭唯を見て、いつもよりも少し小さな声で透理が言う。


「これまでの人生で、俺は、いかに人に迷惑をかけないか考えて生きてきたんだ。そして今は、恩――どうしたら手伝えるか、だ。基本的に俺が手伝うというのは、相手にとっては迷惑をかける事だったんだ、これまでは。でも今度は……自発的に、その手伝って……どうやったら喜んでもらえるのか、それを考える事は許されるんだろうか?」


 そんな透理の声に、昭唯は優しい顔で笑みを濃くした。


「私は浅薄ながらも、『人を喜ばせたい』あるいは『幸せにしたい』という気持ちを認めない神仏は知りません。それにしても、どういうことなのですか? 透理」

「ん?」

「『雪童の民は人に尽くす』とは、一体?」


 二人きりになった囲炉裏の前で、昭唯が続ける。


「俺にも分からない。ただ、彩様はそう言って、俺に薬を渡してくれた」


 二人は戸口の方へと振り返る。既に彩の背中は見えず、ただ綿雪が舞い落ちていくだけだった。



 ◆◇◆



 ――最近、彩と透理の距離が近い。

 その事実に、平静を装いつつ、内心で昭唯は苛立っていた。憧憬の滲むような瞳で彩を見る透理を見ていると、思わず腕を組んで、片目だけを半眼にした、左右対称の顔をしてしまう。彩の方はいつも無表情で感情が見えないとはいえ、透理のように誠実で優しい男前に、惹かれないとは断言できないだろう。また彩は、中性的な青年で、二人が並ぶとそれこそ、お似合いにも見える。苛立たない方が無理だった。


 隣に立って、『また』見ているのかと指摘しても、透理は素直に頷くだけだ。

 今は確かに色恋沙汰で揉めている場合では無いのかもしれないが、正直面白くない。

 その上、『恩返しがしたい』といいつつ、透理は彩の手を握った。

 ――私の手は握った事が無いくせに?


 透理から自発的に触られた記憶が、昭唯にはない。いつだって、自分が強引に抱き寄せ、押し倒し、キスをするばかりだ。正直その点では、彩が羨ましい。


 だが、その彩には奇妙な点がいくつもある。


「こういう時は、総本山の書庫を渉猟したくなるのですが」


 そう呟いてはみたものの、既に昭唯は破門されている。問い合わせた結果が、凶と出たのだ。ただ正確には、嘉唯を連れて一刻も早く、羅象山へと戻るようにと言われている。勿論、透理を置いて戻る気など皆無だ。とはいえ、なにかあれば、嘉唯は戻すつもりでいる。


「雪童とは、なんなのでしょうね……」


 腕を組んだ昭唯は、それから囲炉裏の前にいる透理を見た。御先狐の面を後ろに回し、今では袖を捲っている。嘗ては見られなかった姿だ。すっかり障りが消えたという話も聞いている。


 ――結果として、透理を助けたのは、彩である。


 それは喜ばしいことであるが、己は透理に何も出来なかったように感じて、不甲斐なさもある。


「でも、そんなのは関係ありませんね。好きなのですから。私は絶対に透理と相思相愛になります」


 あまり感情が見えない透理の心を、必ず己に傾けたい。

 これが昭唯の決意だった。






コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?