――透理の空想に反して、彩はすぐに戻ってきた。透理が出迎える。
「っ、待たせたな!」
肩で息をしている彩を見れば、走ってきたのがひと目で分かる。
白い頬が上気していて、髪がこめかみにはり付いていた。
「これを塗ってくれ。それと、これを飲め。そうすれば、子供以外は――子供であっても、大人であっても、相当弱っていなければ、他の人々に感染する事もなくなる。まぁ再感染は、子供はちょっと気をつけた方がいいが」
そう口にすると、初めて彩が微笑した。今まで笑った姿を見たことが無かったので、透理は目を瞠る。既に装束を整え直し、面を身に着けていた透理は、それから差し出されている不思議な品々を見た。そして慌てて頭部に面を回して、手を伸ばす。
透理は、受け取った薬らしきものを、まじまじと眺めてみた。
三春に聞いた時は、よくある薬師がすり下ろした塗り薬だと思っていたのだが、手渡された品は、透理がこれまでには見た事の無い容器に入っていた。蓋を開けてみれば、塗り薬には違いなさそうだったが、やはり見た事がない。飲み薬に至っては、粉ではなく丸い粒だった。丸薬という概念だけは、耳にした事があったが、それがこの品なのか、透理には分からない。
確かに、孝史の手当をしてくれた時も、見慣れぬ薬を使用してはいた。
結果としてその孝史は既に、起き上がれるほどに回復している。
更にこの相談の契機でもあるが、三春の手当もしてくれた。
だが――それは、三春の障りが軽かったからなのかもしれない。
差別され、後ろ指を指される事に、透理は慣れきっていた。
無償で自分達を助けてくれた存在など、本当に雛原村の人々だけだったのだ。
あの村の人々は、誰一人不満を言わなかった。
――けれど本当は思うところがあったのかもしれない。
雛原村の人々に対してさえ、透理はそう勘ぐる時がある。単に村長と寺の法師という強い権力を持つ二人に、意見できる者がいなかっただけなのではないかと。
――それでも、それでもだ。
それで良かった。
何か理由があったとしても、雛原村の人々は、温かく自分達に接してくれたのだから。
――けれど、彩様は別だ。
先ほど己の障りを、右の二の腕から肩までを覆う障りを見せた。寧ろあれでは、呪われていると言うことを、自分から露見させてしまったとも言える。
「全員に足りる数がある。治療をするのなら、早ければ早いほどいい」
そう言って、彩が篭を差し出した。
――これが皆を死に至らしめる薬でないと、言えるのだろうか?
濡卑の首領として、透理は思案した。
「ありがとう」
それでも、ここまで良くしてくれた彩を疑う事が、透理は嫌だった。
だから、一人静かに頭を振る。礼を告げて、篭を受け取った。
そして――その場で薬の飲み方と、塗り薬の塗り方を教わる。丁寧に彩は教えてくれた。
全てを頭に入れてから、まず透理は、自分が飲んでみる事に決める。
塗り薬も、同時に試す事にした。
透理が薬を用いるのを、静かに彩は見守っていた。
その後は特に指示もなく、薬を使い終えた時、透理が顔を上げると、どこか遠くを見るような眼差しをしていた彩が、我に返ったように息を呑んだ。
「料理の途中だったな……」
彩の声に透理が曖昧に頷くと、彼は踵を返して囲炉裏の方へと向かっていった。
――やはり、毒なのだろうか?
一瞬浮かんできたそんな思考を振り払おうと努力する。
彩が何か言いたそうに見えたからだ。また、料理の話題を出して、ここから逃げたようにも見える。
暫し思案してから透理は、昭唯の所へと向かった。
昭唯はすぐに顔を上げた。
「少し話があるんだ。できれば、馨翁と――濡卑の皆も含めて」
それからすぐに、透理の号令により、濡卑の面々と馨翁が、二人を囲むように集まった。
昭唯だけが、袈裟を着けた僧服で、他は皆、御先狐の面を着けたままだ。三春は、透理とは逆側の長の隣に座っている。
「――彩様から、この業病を治すという薬を頂いた」
簡潔に切り出した透理の言葉に、皆が息を呑む。
昭唯もまた目を見開いたのを、透理は目にした。
「治るのか?」
「本当に?」
「まさか」
「呪いじゃないのか?」
「俺達が濡卑だと露見したから、毒薬を渡されたんじゃ――」
その場にざわめきが広がっていく。
皆の意見に耳を傾けてから、透理は静かに一度吐息した。
そして透理は、努めて冷静な声を出す。
「俺はさっき飲んだ。塗りもした。もし俺が治ったら、皆も飲む、治らず死んだら、誰も飲まない――どうだ?」
「頭領……」
すると濡卑の面々が、面越しに顔を見合わせて、互いに頷いていた。
「儂も飲もう。若人よりも死にゆく爺には丁度良い」
最初に馨翁が口を開いた。すると次々に声が上がる。
「いや、俺達も飲みます」
「俺も飲む」
「治療――本当に呪いじゃなくて、病気なら、俺は治りたい」
「どちらにしろ、頭領も馨翁も死んじまったら、どうしようもない。この一座は終わりだ」
そんな声を聞きながら、狐面の奥で、透理は苦笑した。
彼らの反応が、心地良かった。
己が慕われているように感じた事がまずは一つだ。
同時に、自分同様彼らが、彩を信じていると分かった事がとても嬉しい。
「――昭唯はどう思う?」
透理はそれから、その場を見守っていた昭唯に視線を向けた。
沈黙を貫きその場を見守っていた昭唯は、顎に手を添えたままだ。それからすぐに、透理は視線が返ってきたので安堵した。昭唯は頷いている。
「彩殿は、恐らく最初から、透理達が病の罹患者だとご存じで、その上で留め置いてくれたのではないでしょうか? ――感染しないと分かっていたから、あるいは、感染しても治る薬があると知っていたから」
その言葉に頷きながら、改めて透理は一同を見渡した。
「俺は、仮に知らなかったのだとしても、そして昭唯が言うように知っていたのだとしても、だ。雛原村の皆が良くしてくれたように、俺達に良くしてくれた彩様の手にかかるのであれば、よいと思ってる」
すると皆が頷いた。その姿に、透理はホッとした。
昭唯は、それを聞いてから、席を外した。昭唯が微笑して歩いて行くのを一瞥しながら、透理は思案していた。
――これが本当に、ただの病気なのだとしたら。
――前世に於ける呪いでもなんでもないのだとしたら。
――それは、どんなに幸せな事なのだろう?
仮にそれは、ただの甘い戯言で、彩の口からの出任せで、毒薬なのだとしても……僅かの間だけで良いから夢を見て、そして、よくしてくれた人の手で逝くなら満足だと、透理は思っていた。
――果たして、治ったならば……その時こそ、恐らく〝恋〟という名前をしているこの気持ちを、きちんと昭唯に告げる事が出来るのだろうか。