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第9話 降りしきる雪の中で


 ――深々と雪が降っている。まだ初秋だというのに、綿雪が舞い落ちてくる。髪に触れる温度は冷たく、その色は白い。眼前には、綿雪が積もった道とは言えない坂がある。


 透理は、背に抱える孝史の体を、背負い直した。孝史は透理の肩に、ぐったりと顎を預けている。簡易な治療は施した。これもまた忍びの技術だ。だが頭部と肩、腹部に、深い傷を負っている。包帯を巻いてはいるものの、溢れている血が止まる気配はない。


「……置いていけ」


 その時孝史が、掠れた声でそう告げた。


「……」


 透理は何も答えない。


 孝史を背負い歩く透理は、ただ大きく吐息しただけだった。感覚としては真冬の山を歩いている状態だが、透理の体は流行病はやりやまいで熱を孕んだかのように上気し、汗が止めどなく浮かんでくる。大きく呼気して、少しでもその熱を逃そうと試みたが、上手くはいかない。汗で黒い髪が、肌に張りついてくる。


 無論体を楽にし、より早く退避するならば……背負う孝史を捨てて行くのが、最良の選択だ。それは、十分理解していた。


 ――けれど。そんな事が、出来るはずもなかった。

 出来なかったからこそ、何も答えられない。


 桑梨山に逃げたところ、街道を東雲水軍に封鎖されており、後ろからは追っ手の相樂の忍び衆が来るため、一同が逃れられる道は花刹山への登山道しか無かった。挟み撃ちにあうような形だったため、透理達に残された逃げ道は一つだけだったのである。


 投降することは論外だった。

 そうすれば、皆が処刑されるのは目に見えていた。


 綿雪を踏みしめながら、透理は山を登る。


 ――花刹山、か。


 一度立ち入れば、雪童の呪いを受けるのだという。

 足を踏み入れて呪いを受けなかった者は誰もいないと、専ら評判の場所だ。いくつかの村に滞在している時、透理は噂話を耳にした。それだけ、年中雪深いこの山は、異質だった。無論、濡卑の一座にも、この山に関する伝承は、いくつも伝わっている。


「……大丈夫だ」


 透理がポツリと、そう告げた。水のように静かで、感情の窺えない声音だ。


 本当は戦闘での疲労で困憊していたし、希望的観測なんて出来るはずもなかった。

 しかし少しでも、自分達を一時期の間村で普通の暮らしをさせてくれた、大恩ある孝史を安心させたいという思いが募る。


 そのため息をするのもやっとなのに、必死に言葉を発したのだが、思いのほか冷たい声になってしまい、透理は後悔した。だから長めに瞬きをすして気分を切り替えようとする。だが何をしても、罪悪感と後悔に苛まれる。


 ――濡卑の頭領として、己は判断を誤った。


「透理の言う通りです」


 そこへ錫杖をつきつつ雪道を進みながら、昭唯が声をかけた。


「諦めてはなりません」


 改めて強く、昭唯はそう告げる。その声は明るく力強い。


 昭唯は、血の滴る孝史の体を一瞥しながら、笑っている。それが作り笑いだと透理にはすぐに分かった。昭唯は思いのほか、作り笑いを浮かべていることが多い。そう分かるようになったのは、己には心からの笑みを向けてくれると気づいてからだ。とても作り物には見えないのが、昭唯の笑顔だ。多くの者はこの表情に騙される。


 両頬を持ち上げ、昭唯が明るく続けるのを、透理は一瞥していた。


「もう少し歩いたら、きっと休める場所もあるはずです。そこまで頑張りましょう」


 透理は昭唯の意図を察した。

 ――周囲が気を落としていては、それだけ孝史の死期が早まる。


 どこからどう見ても、最早孝史は助からない。

 それは透理だって気がついていた。


 もし仮に――神の子である雪童が存在するのならば、孝史を助けて欲しいと透理は思っている。いいや透理だけではなく、昭唯を始め全員が孝史の生存を願っている様子だ。


 透理と昭唯の後ろを歩く、多くの村人と、濡卑の一座の者が、皆同じ気持ちだろう。あるいは、それは現実逃避であったのかもしれない。なにせ濡卑には神もよそよそしく、神仏に祈る権利はないのだから。


「無理すんなよ、三春」


 透理達の後ろで、嘉唯が三春に声をかけた。


 三春は息切れをこらえるようにして、必死に歩いている。三春の肩に、嘉唯が静かに触れた。今にも倒れそうに見えたからだろう。華奢な三春は、ふらついている。だが、顔を上げて、しっかりと頷いた。三春は、一見気弱そうだが、芯がしっかりしていると透理は思っている。


「大丈夫」


 三春が両頬を持ち上げて、笑みを浮かべた。

 その気配に、透理は安堵した。


「子供達二人も、このように元気なのですから――先を急がなければなりません」


 昭唯がそう言って笑った。

 頷こうとした透理が、その時前を見て、大きく息を呑んだ。


「……!」

「どうかしたのですか?」

「……社がある」


 透理の声に、昭唯が前方へと視線を向けた。そして目を瞠り、錫杖を強く握る。銀製の輪が鳴る音が響く。


「――雪童を奉る社でしょうか?」


 昭唯の問いには答えず、透理は孝史を背負ったまま走った。

 ざくざくと膝まで雪に襲われるが、気にもとめない。

 早く安全な場所で、『手当』をしなければ――その考えだけが、透理の頭を占めていた。


 それは無論、孝史のことでもあったし、他にも、後ろを歩いてくる多くの負傷した雛原村の人々、そして濡卑の面々に対しても抱いていた想いだ。


 ――とにかく、社に。


 本来ならば、村人……一般の民と濡卑の人々が、このように混合して歩くことはない。

 それがこの世界だ。それだけ濡卑は、差別されている。

 だが雛原村の人々は、分け隔て無く接してくれた。今も、逃亡中だからではなく、濡卑の者にも比較的元気な村人は肩を貸してくれたりしているのは、元々根が優しいからだろうと、透理には分かる。


 ――その恩義にも、なんとかして報いたい。


 社の前に立ち、透理は足を止めた。入り口は固く閉ざされている。

 妻入りの社で、三角屋根だ。


「どうしましょうか?」


 追いかけてきた昭唯が、首を傾げた。彼もまた走ってきたため、息が上がっている。

 吐息する度に、その息が白く変わる。

 それを一瞥してから、透理が告げた。


「蹴破ろう」

「――……雪童は祟ると言いますよ」


 昭唯のその声に、面の奥で薄く透理は笑った。

 それは、自嘲的な笑みだった。


「昭唯は手を出すな。俺は呪われる事に、慣れている」


 濡卑は、呪われし業病を患う一族だ。

 つまり、とうに祟りは受けている。そう透理は考えていた。


 それは――透理のみの理解ではなく、濡卑に生まれた者ならば、誰もが持つ共通認識だ。この世界においては、紛れもなく、それが『真実』だ。当の濡卑も周囲の民衆も、多くがそう信じきっている。違うと言ってくれたのなど、それこそ雛原村の人々だけだ。


「――私は呪いなど信じません。それはただの病いです。付き合いましょう」


 その時昭唯が、錫杖を近場の雪に突き立てながら、そう告げた。


「っ」


 その言動に驚いて透理が顔を向ける。


「さぁ、早く――それに御仏に誓って、私は恋人を一人だけで、呪わせたりはしないのです」


 隣にいる、汗をかいている昭唯の笑顔が、今は心強い。普段は汗一つ流さない印象だから、本当は昭唯もまた疲弊しているのはよく分かる。ただ、それでも余裕ある素振りで隣にいてくれるだけで、安心感がある。


 まだ……昭唯の問いに、己は返事をしていないと、漠然と透理は考える。

 だが今となっては、もう返事をする権利も無いだろう。


 ――いいや、そんな事を考えている場合ではない。


 それからすぐに、透理は昭唯と揃って、社の扉を蹴り破った。激しい音を立てて、木の扉が中へ向かって倒れていく。


 中には腐葉土色の床が見えた。ごくありきたりな、木造の社だった。




 ――皆で社の中に入り、扉を閉めて、寒さを凌ぐ。


 目に付いた藁の敷物の上に、透理はまず孝史の体を最初に横たえた。もう一時間ほど前の事だ。その後は、昭唯と二人で覗き込み、付き添っている。


 何が出来るわけでも無かったが、透理が指示を出さずとも、他の人々は皆各々動いていた。それに今だけは、透理は孝史のそばについていたいと考えていた。だから、特に頭領として指示を出すことはしない。なにかあれば、馨翁もいる。


「……此処は?」


 意識が朦朧としている様子の孝史が、掠れた声で問う。


「花刹山の社だ」


 簡潔に透理が答えると、隣で昭唯が微笑した。


 よく見なくても作り笑いではあったが、昭唯なりに元気付けようとしているのだと、透理は理解しているから、何も言わない。今となっては昭唯の感情の機微が、手に取るように分かる気がした。


「今際の際には、相応しい――神々しい場所ですよ」


 しかし続いた昭唯の声は、洒落にならない部類の冗談だった。

 思わず面の奥で、透理が目を伏せる。


「……ハハ、そうか」


 しかし孝史が咎める事は無い。

 彼は、包帯がずれ落ちてきて隠れた目元を、柔和に細めているだけだ。

 常日頃と変化がない、穏やかな笑顔である。


「――なぁ、透理」

「……なんだ?」

「お前は、呪われてなんかいねぇよ。俺が保証する。呪われているとすれば、呪った神様の方がおかしいんだ」

「……」


 孝史の言葉に、透理は唇を噛んだ。


 己があの村に、一座の皆を引き連れていかなければ――……そして規定日数よりも多く滞在などしなければ、孝史がこのような致命傷を負う事はなかった。それは明確な現実だ。


 悔やんでも悔やみきれない。


 なのに、これほどにまで優しい言葉をかけてくれる孝史の事を、その彼の体が冷たくなり始めていくというのに、何も出来ないのか。ただ見ていることしか出来ず、胸が苦しい。透理にとっては、それがどうしようもなく辛かった。





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