――その日の夜更けの事だった。
「っ」
透理は気配を察して飛び起きた。寺の庭に、忍術で用いる
光糸とは、まさしく光のような蒲公英色の糸のようなものを忍術で創ったものだ。実態はなく、忍術の根源となる個々人の力を視認出来るようにしている代物だと言われている。それで様々な紋章を構築する事で、効果が発する。
すぐに最近では把持して寝ていた御先狐の面を身につけ、透理は窓から庭へと飛び降りた。忍術で起こした風と、右手及び左膝で衝撃を緩和し、音もなく気配がした方角を目指す。既に相手は、入れ違いで森羅寺の屋内へと入った様子で、痕跡を追いかける。
「!」
そして二階へと上がる階段の前で、一人の敵を発見した。
出で立ちから、相樂という大名お抱えの忍び衆だとすぐに分かる。
「何が狙いだ?」
低い声で淡々と透理が聞いたのは、クナイを二本放ち、相手の右の二の腕と左足首を傷つけた直後の事である。クナイはいつも、忍術でしまってある。
「――透理様」
すると響いてきた声に息を呑んだ。嘗て、濡卑の一座に生まれた幼馴染みで、障りが出ず無事に大名仕えが出来るようになった同胞の声だったからである。
「ここに濡卑の一座が滞在していると知った相樂様のご命令で、俺達忍び衆は、村人ごと罰しに参りました」
「なっ」
いつかは来るかもしれないと想定していた事態ではあった。だが、いざ直面すると、息を呑まずにはいられない。右腕を押さえている相手が、思案するように続ける。
「貴方お一人ならば、見逃せる。幼少時に、遊んだ記憶、俺は忘れていません」
「俺だって忘れていない。だが、逃げるなんて出来るわけがないだろう」
「ならばどうぞ、俺を倒して見せて下さい。研鑽を積んだ俺を、倒せるものならば。いくらあの頃、一座で一番と言われた優秀な透理様であっても、次期頭領と名高く現にそうなられた貴方であっても、現役の俺に勝てるとは思わないことだ」
「
懐かしい三つ年下の幼馴染みの名を呼んだ透理は、跳んできたクナイを避ける。
左のこめかみを僅かに掠った鋭利なものは、そのまま後ろの柱に突き刺さった。
すると爆発音がし、透理は硬直した。村の方角からだった。
「今頃、方々で相樂の忍び衆が、村人も濡卑も無関係に殺めてますよ。俺を殺して駆けつけたとしても、どうせ間に合いません。残念ですね」
明るい秋弥の声音に、面の奥で透理は眉間に皺を刻んだ。勿論、既に秋弥は、相樂の配下なのだから、こうして忍び同士殺し合う事だってあるのは分かる。だが、嘗ての仲間を躊躇無く殺める所業に、透理の胸が痛んだ。
――痛んだ時には、秋弥の背後に回っていた。
「……悪いな」
バタン、と。
その場に秋弥の体が頽れて、床の上に黒い血だまりが出来ていく。
それを見て取り、透理が階段の陰に秋弥の遺体を隠した時だった。
「何があったのですか!?」
嘉唯と三春を連れて、血相を変えた昭唯が降りてきた。
「……相樂の忍び衆が、村を襲ってきた」
「なっ」
目を剥いた昭唯に対し、面の奥で透理が唇を噛む。
「昭唯、先に二人を連れて逃げてくれ。俺は村を見てくる」
「ですが――っ、必ず生きて戻って下さいね。約束です。今日、薪を取った場所で落ち合いましょう。待っています」
「……ああ」
二人は顔を向け合い、小さく頷いた。
子供達を逃がすのが先決だという見解は、昭唯も一致しているようだと、透理は安堵する。そのまま踵を返して、透理は走り出した。既に村の各家々で火の気が上がっている。黒煙と赤い炎が、ゆらゆらと下弦の月が浮かぶ空にあがり、明るく照らし出している。
「っ」
その光景に息を呑んでから、透理はまず神原家へと向かった。
「!」
そして玄関の前の廊下で、胸にクナイが刺さり、事切れている紗和を見つけた。歩み寄り脈を取るが、出血量と刺さっている位置を見るからに、もう亡くなっているのは明らかだった。開いたままの瞼を瞑らせてから、透理は祈るように頭を垂れ目を閉じる。
「うわああぁ」
奥から孝史の絶叫が聞こえてきたのはその時だった。
走ってそちらへと向かえば、今まさに、忍び衆の者が、刀を振り下ろしたところだった。前を斜めに切られた孝史が畳の上に頽れる。そこに忍びがとどめとばかりに刀を握って突き刺そうとしたのを見て取り、透理はクナイを投げた。首を、一突き、敵の忍びは、後ろの壁にぶつかり絶命した。ただのクナイではなく、光糸で紋を刻んで、即効性の毒を塗りつけてあった代物だ。加速度も早い。
「孝史!」
抱き起こせば、致命傷……には、違いないが、まだ息があった。早く手当をすれば間に合う可能性もある。頭部からダラダラと血を流し、腹部に裂傷を負っている孝史を、透理は背負った。
「……おいていけ。これじゃあ、透理まで死んじまうだろ」
すると孝史がそう言った。だが、見捨ててなど行けない。かといってどうするのかといわれたら策は無かったが、透理は孝史の声を無視して、紗和の遺体の脇を通り抜け、戸口から外へと出た。
「頭領!」
そこへ濡卑の一人が走り寄ってきた。
「忍びの訓練を受けている者の内、十名が残ります。時間を稼ぎます。だから村の生存者と腐肉で歩けぬ者を連れて、先に逃げて下さい!」
「っ」
「馨翁の決定です。このままでは、全滅です」
それを聞いて、透理は心臓を素手で撫でられたかのような不快感を味わった。だが、と、背負っている孝史を見る。誰かが残って時間を稼がなければならないのは間違いない。
「待ってくれ、俺が残る。だから、お前は孝史を――」
「なりません。頭領がいなければ、誰が一座をまとめるというのですか?」
「……」
「お早く! 皆、村の裏口から出て、桑梨山の山中の
昭唯の事を思い出し、無事子供達を保護してくれているのだろうと、まずは安堵した。
今、どうするべきか、最善の策は何か、それだけが分からない。だが、迷っている間にも、孝史の命の灯火は消えていくし、残っている者達は死んでいく。それだけは事実だ。心を、鬼にしなければならないのだろう。
「……分かった。時間を稼いだら、可能な限り離脱してくれ」
「……そうですね。透理様はいつもお優しいですね。では、俺は行きます」
こうして透理は濡卑の一人を見送ってから、目的の場所を目指して走った。
月が、次第に傾いていく。