心配していたらしい三春に、透理は抱きつかれてからずっと、雛原村を目指して歩いている現在、腕の衣を掴まれている。逆隣を歩く昭唯は、その様子を微笑ましそうに見ている。
「私にも、三春と同じ年の頃の弟子がいるのです。
昭唯の声に目を丸くしてから、嬉しそうに口元を綻ばせて、三春が頷いた。
それを一瞥しながら、正面に見えてきた雛原村を透理は見据えた。法師が常駐しているだけあって、大規模な村だ。
――そこでは、どのような要求を突きつけられるのだろうか?
きちんと着直した黒装束姿の透理は、狐面の奥から昭唯を観察する。助けてくれた時には、本当に安堵して肩から力が抜けたが、過去、なんの理由もなく助けられた経験が、透理にはそれこそ母や養父といった一座の者からしかなかった。
透理の本当の父親については、母の
なお、母が再婚した養父との間に三春が生まれ、透理と四人での生活は、本当の親子のようで、実の父親の不在や生死など、母が遺言を残すまではほとんど考える事は無かった。三春の前に神子をしていた母は元々体が弱く、養父の
保は生前、透理に様々な忍術を教えてくれた。家族であるだけでなく、師でもある。
その忍術を用いて、透理一人ならば、本当にどうとでもなる。
だがそうするわけにはいかないのが、頭領という立場だ。
「ほら、見えてきましたね。あそこですよ、出入り口は」
昭唯の声に、我に返って透理は改めて前を向いた。そして一座の者に一度振り返ってから、雛原村へと足を進めた。
すると三春と同じ年頃の少年が駆け寄ってきて、昭唯の前に立った。
「遅いぞ、師匠! って……ええと? この人達は?」
「嘉唯、随分なご挨拶ですね。彼らは、濡卑という方々です。孝史に、濡卑の一座が来たと伝えてきて下さい。いいですね?」
「濡卑……? うん、分かった」
嘉唯と呼ばれた少年は、目を丸くしてから大きく頷くと、踵を返して走り始めた。
「さぁ、行きましょう」
それを見送りながら、ゆっくりと昭唯が歩いて行く。自分より僅かに背が高い昭唯の背を見ながら、唾液を嚥下し気を取り直し、透理もまた前へと進んだ。
ついていくと、少し高い場所に寺があり、その隣に大きな邸宅があった。土が踏み固められた集落の路地には、綺麗に家々が立ち並んでいる。
「ここが村長の、神原孝史の家です。どうぞ、中へ。孝史ならば、決して悪いようにはしないでしょう」
それを聞いて、半信半疑ながらも透理は頷いた。
扉は開いていて、中を覗くと、長身で大柄の青年が、快活そうな笑みを浮かべていた。
「よぉ、昭唯様。なんだって? 濡卑だ?」
「ええ。落葉村で酷い目に遭っていたので、連れてきたのです」
「そりゃあ災難だったな。今、村中に伝令を出した。各家で、一人ずつ、夫婦や子がいるものは、その家族単位で滞在を受け入れる事にした。今、外で誘導を始めているはずだ。勿論俺のこの家でも必要があれば預かる。頭領と神子は、森羅寺の方がいいだろう?」
「ええ、そうですね。寺に住職がいる場合は、そうするよう万象仏教の本山からも通達されておりますので」
「おう。そうしたら、滞在中の禁については、ここで俺と昭唯様と頭領で話をするとして、神子さんは……こりゃあ、まだ小さいなぁ。嘉唯と先に寺に行っていたらどうだ?」
それを無言で聞いていた透理は、先程のような事があってはならないと考えて、自分の腕を掴んだままの三春を見る。
「三春。先に」
「……でも」
だが三春も怯えているようで、孝史と昭唯を交互に見ている。するとそこに、嘉唯という少年が顔を出した。
「行こうぜ! 色々お話、聞かせてくれよ」
「えっ……あ……」
これまでに同世代とほとんど会った事のない三春が狼狽えているのが、手に取るように透理には分かった。暫し逡巡した様子だった三春は、それから手を伸ばしている嘉唯の掌に、そっと手を載せた。
「じゃあな、師匠。先に行ってるぞ」
「三春殿に失礼がないように」
溜息をついた昭唯に対して、嘉唯は笑顔を返してから、三春の手を引き歩き出した。
その姿を見送っていると、正面で吐息に笑みを載せた気配がした。慌てて視線を戻すと、楽しそうに孝史が笑っていた。
「心配か?」
「……」
「嘉唯はああ見えて聡いから、心配はいらん。どうぞ入ってくれ」
孝史はそう言って促すと、先に奥へと戻っていった。
「入りましょう、透理」
「……ああ」
頷いて、下駄を脱いだ昭唯の後に続き、透理もまた草鞋を脱いで中へと入った。
案内された客間で、掛け軸の前に孝史が座す。そこへ女性がお茶を運んできた。
「あ、こちらは俺の家内の紗和だ」
「はじめまして。私、濡卑の方って初めてお会いするの」
「……透理です」
言葉遣いに気をつけなければと思い出し、透理はそう述べた。湯飲みを三つ置くと、すぐに紗和は下がっていく。中に入るのはドクダミ茶のようだった。歩き疲れて喉が渇いていたから、すぐにでも飲みたかったが、濡卑の使った食器類は二度と使わないという人々が多いので、透理は躊躇った。紗和は知らないと言っていたから、迷惑をかけないように飲まない方がよいだろうかと思案する。
「それで? 滞在中の禁だが」
「……はい」
「そう畏まるな。気楽に気楽に。別に濡卑だからって、俺は気にしないぞ」
明るい孝史の声音に、透理が顔を上げる。面越しに捉えた孝史の瞳に、嘘は見えない。
「聞いた事があるのは、腐肉が浮くから、湯は最後に入ってもらうという事だな」
「……ああ」
「他には何か、禁忌はあるのか?」
「……濡卑の側には、特別には無い」
「そうなのか?」
「ああ……三日間だけ滞在させてもらえれば、十分だ」
「三日ねぇ? 気に入ったら、いつまでいてくれてもいいんだぞ?」
「……」
そんなものは出来っこないと、心の中で透理は溜息をついた。三日以上滞在すれば、罰を受ける事になる。どうせ三日目には、雛原村の者達も、濡卑の一座を追い立てるはずだと、透理は静かに考えていた。
「じゃ、それだけか。俺達が気をつける事は他には無いんだな?」
「……滞在させてもらえるだけで十分だ」
「それなら、特に話す事も無いな」
孝史のその言葉を聞いて、思わず透理は息を呑んだ。なにか、要求されると考えていたからだ。本来、〝禁〟を聞くというのは、滞在先の村の指示を聞くというものである。
「……」
透理は面の奥で冷や汗をかいた。しかし余計な事を述べて、何かを要求されても困る。
「透理」
すると昭唯が、隣から声をかけた。透理が顔を向けると、彼は湯飲みを傾けていた。
「お茶をご馳走になったら、私が暮らす森羅寺へ参りましょう」
「あ、ああ……その……飲んでいいのか……?」
おずおずと透理が己の湯飲みを見て切り出すと、孝史が頷いた。
「飲め飲め。なんだ? ドクダミ茶は嫌いか?」
「その……呪いが移ると噂する者が多いから……」
「馬鹿だなぁ。呪いなんてあるわけがねぇよ」
あっけらかんとした様子で、孝史が言う。透理は沈黙した。己の左肩の少し下と二の腕には、確かに呪いの証である障りがある。まだ爛れている状態だが、すぐに腐り始めるのは明らかだ。それが、腐華肉病である。
「……」
迷ったが、喉の渇きに逆らえず、透理は御先狐の面を後ろに回した。
そして右手を伸ばして、湯飲みに触れる。初夏の日射しを慮ってか、中身は冷たいようだった。一口飲めばドクダミの風味がし、喉がすぐに癒やされていく。
「思ったより、若いんだな。頭領っていうから、もっと爺様かと思ってたぞ。透理だったか? お前、歳は? 俺は二十八だ」
「……二十一だ」
「おや、私と同じ歳なのですね」
そんなやりとりをしながら、透理はゆっくりと冷たいドクダミ茶を味わった。