鼻につく匂い、ザーという一定の音、外を見る前に分かった。
雨だ。
5月に入ったばっかりだと言うのに、雨とは……。
一応、折りたたみ傘を持っておいてよかった。
俺は靴を履き替え、外に出た。
雨は音が強く、かなり激しく降っていた。
「いやー、雨とはねー」
俺の横で樫田が言った。
本当にな。自転車で帰れないのは面倒だ。
「大槻と山路はバスで帰るって、杉野はどうする?」
「俺は歩きかな」
「じゃあ一緒に帰るか、俺も駅まで歩きだし」
「だな」
俺と樫田は傘を指しながら、学校を出た。
いやぁ、新入部員も来たことだし、いよいよ二年生になったって感じがする。
そんなことを考えながら何の気なしに、俺は樫田に聞く。
「で、一年生の感想は?」
「感想ってざっくりしてんな」
「なんかあるだろ、エチュードみて使えそうと思ったとか」
「ああ、そんな感じの。それで言うとだな、正直不安はある」
「不安?」
思った感想と違う言葉が出てきたので、俺は思わず聞き返した。
なんだよ、不安って。
「誤解を恐れず言うなら、こいつらを後一ヶ月近くで人前に立たせないといけないのかっていう不安」
「ああ、なるほど」
俺たちはもう二年生だ。教えてもらう側から教える側に変わったのだ。
これからは俺たちが教えていかないと。
確かにそう考えると不安がある。
それに後一ヶ月で春大会がやってくる。
それまでに一年生を仕上げないといけないわけだ。
スポーツ系の部活ではいきなり試合に出さず、きっと補欠から始まるだろうが多くの演劇部は春大会で新人を舞台に出させる。それが一番いい経験になるからだ。
「まぁ、実力のほどは分からないが田島は経験者って言ってたし、残り二人も言うほどそんなに悪いわけではなかった」
樫田は補足するようにそう言った。
そうだな。エチュードこそ酷かったが、初心者なんてあんなもんだし。
「杉野こそどうなんだ、一年生の感想」
今度は樫田が俺に聞いてくる。
そうだなー。まだ一日しか会ってないから感想もくそもないんだけど(お前から言い出しだんだよ)。
「今のところ、みんな良いやつそうだし、特にこれといってないかなぁ」
「人に聞いておいてその言いぐさかよ」
仕方ないだろ。特に感想なかったんだから。
「いいだろ、別に。樫田は評論できたりするから感想持てるかもしれないが、ただの役者の俺は一日目でそんなには見抜けないよ」
「俺だって見抜けてないわ。ただ聞かれたから言っただけだ」
言葉が出てくるのがすごいんだって。
俺はそんな感想とかどうしたら良くなるとか分からんから。
そう言おうと思ったが、どうせ「そんなことない」っていうだけだろうと思って、言うのを止めた。
「樫田には全部見透かされてそうだわ」
代わりに、そんな冗談を言うと樫田は小さく笑った。
「……そんなことないさ。正直、大槻が夏村に告白するって決心されたときは焦ったよ」
その笑顔はどこか寂しそうで、とても印象的だった。
それに
「焦った?」
どういう意味だ? あの時はそんな素振りはなかったような、それに見透かすどうこうではなく、焦ったとは?
「ああ、そうだ。あの時は焦ったよ」
樫田がなんで焦るんだ? ……は! ま、まさか!
「言っておくと、俺は夏村に対して恋愛感情はないぞ」
俺の考えは一瞬で否定された。
くそ、久々に感がさえたと思ったのに。
「じゃあ、なんで焦ったんだよ」
「簡単な話だよ、大槻が部活に来なくなるからだ」
? どういうことだ?
「何で夏村に告白すると大槻が部活に来なくなるんだ?」
俺にはさっぱりわからなかった。
「そういうとこは鈍いよなー。告白する、フラれる、部活に来づらくなる。な」
樫田は分かりやすく端的に単語のみで説明した。
そういえばあの時も樫田は大槻がフラれる前提だったな。
「まぁ、いいたいことは分かったけど、焦るほどか? 一時部活に来なくなるぐらいで、今までも大槻はサボったりしてただろ」
すると樫田は、少し遠くを見ながら言った。
「杉野、俺たちは今、思っているよりもギリギリのバランスを保って部活をしている」
「ギリギリのバランス?」
「ああ、例えば椎名と増倉は一触即発だろ? あの二人はいつ本気で喧嘩してもおかしくない」
……それについては俺でも分かる。今はまだお互いどこか尊重しながら言い争っているが、一歩間違えれば顔も見るのも嫌なぐらいの仲になるだろう。
「それに今でこそ普通に来ているが、大槻と山路はいつ来なくなったって不思議じゃない。バイトや部活へのモチベーションとか理由は色々あるが」
確かにそうだ。その二人もいつサボりだしてもおかしくはない。
「それに夏村も、いやあいつはいいか……とにかく、いつ部活が崩壊してもおかしくないんだ」
「崩壊って……」
その表現は少し大げさじゃないか。
「まぁ、一個一個が問題なのは分かるけど、崩壊って」
「そうだな。じゃあこういうのはどうだ? まず大槻が夏村にフラれる」
ああ、フラれることは確定なんだな。
「そんで、大槻が部活に来なくなる。ここまではいい。問題なのはその後の大槻の処遇についてだ」
処遇? また難しいことを。
「もし劇が近くて大槻が役を持っていたとしたら?」
「それは……」
「そうでなくても椎名は部活に来ないやつは退部させようとするんじゃないか?」
その前例はある。部活紹介のとき、椎名は大槻と山路を辞めさせようとした。割と本気で。
「そんな椎名に対して増倉が待ったをかける。理由はそうだな。そんなの横暴だ、といった感じで」
なんかイメージがついてしまった。
「それが決定的な仲違いになるかは定かではないが。そしてそんな二人を中心に、山路はバイトに逃げ夏村は我関せず。俺と杉野は……そうだな。振り回されるだけ振り回されて終わるんじゃないか?」
なんか俺と樫田だけテキトーな。でも想像できてしまうぐらいにはリアリティを秘めていた。
最悪の場合そうなるかもしれない。人間関係の縁つてやつは何が原因で切れたり繋がったりするか分からないんだから。
負の連鎖ってやつはいつだって起こり得る。
だが、だからといってそれは深読みしすぎではないだろうか。
「けどさ、そもそも大槻がフラれる保証はどこにあるんだよ」
「フラれるさ。あいつは夏村の本質を理解していない」
本質? 樫田は何を知っているんだろうか。
そう聞こうと思い樫田の顔を見たが、その複雑そうな顔に俺は何も言えなくなった。
樫田は何を考え、どこまで先を見ているのだろうか。
「あ、いやそういう可能性もあるって話だ」
樫田は重たい空気を感じ取ったのか、慌ててそう言った。
俺は考える。樫田は演劇部の中じゃ津田先輩と同じくらい洞察力に長けている。
その樫田がここまで言うんだ。今の部活がギリギリのバランスで保たれているのも本当のことなのかもしれない。
ただ、人間関係とは目に見えないものだ。雰囲気や空気、その人それぞれの仕草や表情から読み取るもの。必ずしも樫田の言っていることが正しいとは限らない。視点を変えてみれば、案外簡単なことなのかもしれない。
難しいところだ。
そうこう悩んでいるうちに、駅までやってきた。
「さてと、今日はここまでだな。色々話したが結局、目下のところ一年生が課題だな。演劇について教えたり仲良くなったりと」
樫田は、まとめるようにそう言った。
「……まぁ、そうだな」
気になることはあるが、今は春大会に向けて一年生を鍛えるのが先か。
「んじゃ」
そう言って改札に向かおうとする樫田だが、どうしたのか立ち止まる。
?
「ああそうそう、さっき俺と杉野は、振り回されるだけ振り回されるっていったじゃん?」
「ん、ああ言ったな」
「ありゃ、やっぱなしで。だってお前今、椎名の味方だもんな」