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[3]入居者が居着かない部屋

「――おおぉ、すげえ、まじで広い」

 部屋に入ると、玄関から左手に廊下が伸びていることに田名辺はまず感激した。今住んでいるアパートは、玄関を開けるとすぐ台所――『キッチン』よりもこの呼び方がふさわしい――で、そのまま元は和室であったことが窺えるクッションフロアの洋間に繋がっているという造りなのだ。『下駄箱』を置くスペースもないアパートと違い、天井まで届くシューズクロークが設置されたマンションなど、田名辺は住んだことなどなく内見するのも初めてだった。

 廊下の左側にはトイレと、浴室に続く洗面所のドアが並び、反対側には六畳ほどの洋室。奥の壁一面はクローゼットで、角部屋なので窓もふたつあった。廊下の正面にある磨り硝子の入ったドアを開けるとそこはリビングで、右手にはコンパクトだが二口焜炉コンロのついたシステムキッチンとカウンターがあり、左手、リビング側にある折れ戸の中はウォークインクローゼットだった。

 二十畳ほどもある広いフローリングのリビングの奥は、二間分がバルコニーへの硝子戸になっていて明るい。柿沼かきぬまと名乗った不動産屋ががらりとその硝子戸を開けると瞬間、ジィジィと響いていた蝉の声が止んだ。

 涼しいとまではいかないが、ふぅっと風が通って汗を拭いながら息をつく。六階なので、外の景色もなかなかだった。見たところ懸念していたようなネオンサインも、騒音の元になりそうな工場や飲食店などもなさそうだ。

「いいお部屋でしょう! バスとトイレも別ですし、収納もたっぷりです。駅も近くて便利のいい場所ですけど、通りが一本ずれてるんで意外と静かで人通りも少ないんです。おすすめですよー」

 想像していたよりもずっと広く文句の付け所のない部屋に、田名辺はもうすっかり舞いあがっていた。早く契約したい気分でにやにやと笑みが顔から剥がれない。

 バルコニーから玄関まで戻り、あらためて玄関側の洋室、洗面所、自炊しないともったいないほどのゆとりのあるキッチンを眺めて歩きながら、田名辺は振り向いて古峯の顔を見た。田名辺としては、もう残っている問題は敷金だけだった。が。

「……本当にいい部屋だけど、ここ、なんで家賃が安くなってるの?」

 岩渕が訊いた。諫山も尋ねられた柿沼に注目している。柿沼は額の汗をハンカチで拭いながら、「なんで、と云われましても、その……」と、少し困った顔をした。

「えーとですね、こちらのお部屋はその、入居された方が長く住まわれない、ということがちょっと続きまして……。で、壁紙なんかも綺麗なままなもんで、そのままお貼り替えしていないんで、そのぶんお値下げさせていただいていると申しますか――」

 なんとなく歯切れが悪い。その説明で納得したのかどうか、諫山は何度か頷いたあと古峯に近づき、耳打ちをした。そして、今度は古峯が自分のところに歩み寄ってくる。田名辺はなんだ? と眉をひそめた。

 古峯は云った。

「……夜、もう一回見に来たほうがいいってさ」

「夜? また来んの?」

 そもそも、はなから幽霊やその手の曰くは信じていない田名辺である。広いだけでなく綺麗でいい部屋だし、別に変な臭いもしない。なのにどうして夜まで見に来なければいけないのか。もういいじゃないか住むのは俺だと、うんざりした表情をしていたが――。

「うん、物件探しって昼も夜も、できれば晴れの日も雨の日も見たほうがいいって云うしね。住み始めてしまったら、なにか問題があったとき避けようがない。そうほいほいと引っ越しばかりできるものじゃないからね、きちんと見ておいたほうがいいよ」

「いや、俺は別にもう――」

 もういいと田名辺は首を振りながら云いかけたが、その言葉を柿沼が遮った。

「でしたら鍵をお預けします! どうぞお好きな時間にご自由にご覧になってくださいませ。鍵はご覧になったあと、玄関横の扉のなかにある給湯器にでも引っ掛けておいてくださればいいんで……どなたであれ入居が決まりましたらどうせ鍵は新しく付け替えますんで、問題ないです!」

「そう、ありがとう。じゃあそうさせてもらうことにしよう。……よかったね、田名辺くん」

 にっこりと、岩渕がまるで詐欺師のような愛想のいい笑みを浮かべる。

 もう古峯が金さえ貸してくれれば契約する気だったのに、おまえが余計なことを云うから……と、田名辺はへらへらと営業スマイルを浮かべ岩渕に鍵を渡している柿沼を、恨めしそうに睨んだ。

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