目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
[2]霊感男、逃亡する

 翌日。

 古峯に呼びだされ、田名辺はひとりなら入ることなどないであろう、小洒落た喫茶店に来ていた。

 時間ぎりぎりで間に合った人気のモーニングセットが並ぶテーブルを挟み、田名辺の前には古峯と、岩渕いわぶちという男が並んでいた。岩渕は古峯の友人の兄のゼミのOB、とかなんとか、まあそんな縁の知り合いらしい。

「――だからね、君が怖くなくても、その手の曰くを気にしないとしても、やっぱりなにかあるなら避けたほうがいいってことなんだ、わかる?」

「はあ」

 なにもなくて家賃が半額なわけがない。古峯は事故物件かもしれない部屋に友人が越そうとしているのを心配して、この岩渕に相談をしてみたそうだ。そして岩渕も、そんな怪しい部屋に住むなんてやめたほうがいいのではないかという意見で、田名辺は今ここで家賃半額の部屋を諦めるよう説得されている、というわけである。

「……って云ってもね。君も、そこが本当に事故物件なのかどうかもわからないうちに諦めろって云われても、なかなか納得できないと思うんだよね」

「はあ、正直そっすね。それに、俺は事故物件でも気にしないんで――」

「いや、気にしないのはわかったけどね。霊障っていってね、視えたりしない人でも、住んでるうちに身体の調子が悪くなったりとか、そういうこともあるから」

「はあ」

 そうは云われても、やはりピンとこない。田名辺はコーヒーを啜りながら、なんでこんな人連れてきたんだよと、古峯に目配せした。だが。

「まあさ、おまえも肝心の部屋見てみないと、やっぱわかんねえよな。でさ、岩渕さん、知り合いに霊感の強い人がいるって云うんで……」

 霊感の強い人? まだ誰か呼ぶつもりかと途惑いつつ、田名辺は古峯と岩渕の顔を交互に見た。

「うん。岡元おかもとっていう奴なんだけどね。さっき聞いてみたらいつでも来られるって云うんで……どうかな田名辺くん。今からその部屋を見に行かないか」

 え? と、想像しなかった展開に、田名辺は目を丸くした。

「今からっすか? えと、その……霊感強い人も一緒にってことっすか」

「もちろん。そうじゃなきゃ行く意味がない。ああ、もうひとり連れがついてくるかもしれないけど……」

 人が多いほうが心強いよね、と岩渕はそう云って、愛想のいい笑みを浮かべた。

 こうして、安価でボリュームたっぷりと評判のモーニングセットを――田名辺は古峯の奢りで――食べ終えると、三人は冷房の利いた店を出た。





 店舗に出向くよりも物件の場所のほうが近く移動にも慣れているということで、三人は内見するマンションのエントランスで不動産屋と待ち合わせることになった。

 霊感が強いという岡元と、もうひとり諫山いさやまという連れもマンションまで来るらしい。思わぬ大人数になってしまったが、まあみんな好奇心からなんだろうなと、田名辺は気にしないことにした。

 『ドミール川添』は、大学からは二駅、いつも買い物をしたり食べ歩いたりしている辺りから然程遠くない場所に建っていた。男三人、額に汗を浮かべながら特に話すこともなく黙々と歩を進め、商店街を過ぎ静かな住宅街に差し掛かる。カーブミラーと電柱を回りこんで細い道に折れると、程無く駐車スペースの奥に煉瓦色の建物と、洒落たエントランスが見えた。

「ここだね」

 賃貸情報の画像では大きなマンションのように見えていたが、近くで見ると思ったほどではなかった。とはいえ、田名辺が今住んでいる軽量鉄骨造のアパートとは比べ物にならない。岩渕は田名辺よりも先を歩き、ひょいと片手を上げてマンションの前に立っているふたりに声をかけた。

 ひとりは髪を長めに伸ばしてサングラスを掛けた、ファッション誌から抜けでてきたような男で、もうひとりはひょろっと色白で背が高い、童顔な男だ。

「早かったな」

「こっちは車だったからな」

 岩渕はそのまま岡元と諫山らしき二人組と話しこみ――なにやら難しい表情をしてこちらへ戻ってきた。なんだろう? とふと見やれば、童顔な男のほうが俯き加減にに胸を押さえている。

「……どうかしたんすか?」

「いや……岡元が、気分が悪いって云うんだ。それも、此処に着いてから」

「えぇ?」

 此処に着いてから、と意味ありげに云う岩渕に、田名辺は首を傾げ、古峯は大袈裟に怯えた様子を見せた。

「それってまさか、霊がいるからとか?」

「わからん。とりあえず、不動産屋が来て部屋に入れば、もっとはっきりするんじゃないかな」

 そして、それから三分もしないうちに不動産屋もやってきた。お待たせしまして申し訳ないですーと、挨拶もそこそこに調子のいい若い男がマンションに入っていく。岩渕に促され、田名辺と古峯もその後に続いた。

 気分が悪いらしい岡元と、一緒に来た諫山はどうするのかなと振り返ると、きょろきょろしながらゆっくりとついてきていた。部屋番号とダイヤル錠が規則正しく並んだ郵便受けと、宅配ボックスが設置されているエントランスを進み、不動産屋の男がエレベーターの呼び出しボタンを押す。

 そのときだった。

「……無理だ、ここから先には進めない! 悪い、俺は帰る、こんな……ここに住むなんて絶対勧めない、やめたほうがいい!」

 何事かと振り返る。声の主は岡元だった。岡元はがたがたと震えながら、念を押すように「とにかく俺は帰る、こんなところには一秒だっていたくない!」と上擦った声で云い、くるりと踵を返して駆け足で去っていった。

 田名辺は呆然と言葉を失ったまま、その後ろ姿を見送った。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?