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scene 2. 叶うだけの幸せ

 翌朝。階下したから聞こえてくる物音とヒステリックな声に、ライアンははっと目を覚ました。

 二階にある寝室のひとつを独りで使っていたライアンは、部屋を出るとまず廊下を真っ直ぐ進んだところにある、もうひとつの寝室をノックした。ドアはすぐに開き、既に着替えを済ませていたブレイデンが顔を見せた。隙間から覗いてみたが、ティムはまだ眠っているらしい。

 用件はわかっているといった表情のブレイデンに、ライアンは眉根を寄せた。

「……なんで止めに行かない?」

「とばっちりはごめんだ。悪いが」

 しょうがないなと唇を噛み、ライアンは階段を下りていった。


 主寝室に近づくにつれ、甲高く喚くリヴィの声のボリュームがあがった。いつもの喧嘩――というよりも、ちょっとしたことが気に入らなくて、彼女がジョシュに一方的に八つ当たりをしているのだ。だがジョシュは生来の気の弱さや人の好さの所為で、ただ困り果てているばかりでほとんど云い返すこともない。そして、そんなジョシュの態度にリヴィはますます苛々してしまうらしい。

 正直、だったら別れろと云いたくなる。しかし気分屋の彼女は喧嘩のあと、別人のようにしおらしくなったりするそうだ。男女逆にして考えてみれば、それがドメスティックバイオレンス DV と呼ばれる典型的なパターンなのは明らかだが、ジョシュはそれに気づいていないようだった。

 確実に聞こえるよう大きな音でノックし、静まった隙を狙ってライアンは「おい、どうした。何事だ」と、ドア越しに声をかけた。

 暫しの間があって、かちゃりとドアが開いた。「おはよう……起こしたみたいだな、ごめん」と出てきたジョシュの顔を見ると、瞼が切れて僅かに出血していた。

「そんなことはいいけど……おい、血が出てるぞ」

「ああ……ベッドの横にあったランプが飛んできたから、そのときに切れたのかな」

「髪に埃もついてる。洗って消毒したほうがいい」

 ジョシュの肩に手を置き、部屋の向かい側にあるバスルームへと促したそのとき。

「ちょっと!! なんなのよライアン! まだ話の途中なのよ、人の男を勝手に持ってかないでくれる!? ちょっと聞いてるの!? このホモFag!!」

 リヴィがライアンに厳しくあたる原因はこれだった――ライアンがオープンリーゲイであることを知ってから、リヴィはライアンに対する態度をがらりと変え、そしてジョシュに付き纏い始めた。

 マイノリティに対してどうしても寛容になれない人はいると、ライアンは気にしないよう努めていた。しかし彼女が、自分のいちばんの友人であるジョシュと付き合い始め、バンドを始めるときにベースが弾けるならと頭数に入れてくれたおかげで、どうしても縁が切れない。

 厭な思いをすることには慣れているが、仮にもバンド仲間なのだからもう少し考えてほしいものだ。聞こえてきたとんでもない言葉に、ライアンは一呼吸天井を仰いでから、ゆっくりと振り返った。

「リヴィ。君自身の知性と品性のためにも、そんな言葉は口にしないほうがいいと忠告させてもらうよ。俺は『ゲイ』だ、簡単なことだろう?」

 ジョシュには絆創膏を貼るだけだから、心配しないでくれ。そう云ってライアンは、ジョシュを連れてバスルームへと入った。

 ――同時に、ばんっとドアになにかがぶつけられる音がした。


「ごめん……なんで彼女、ああなのかな。ほんとにいつも悪い……」

「気にするなよ」

 本当はもっととことんまで気にして、もう彼女とは離れてほしかった。でも――と、ライアンはジョシュの目許を、消毒液を含ませたコットンで拭いながら考えた。

 たぶん、ジョシュが彼女と付き合うのをやめたら、バンドももう解散だろう。もともとティムもブレイデンも音楽好きが高じて参加したわけではなく、ただの暇潰しとリヴィのご機嫌をとるためバンドに加わったに過ぎない。ジョシュと自分はロックが好きで、昔からよく一緒に聴いたりはしていたが、自分たちでメンバーを探して続けるほどの情熱はない。

 厄介だと思っている相手が作ったこのバンドを、いちばん楽しんでいるのは実は自分なのだ。皮肉だな、とライアンは苦笑した。

「これでいいかな。ちょっと目が開けづらいかもしれないけど」

「ん、大丈夫だよ。……ありがとな」

 そう云って自分を見たジョシュの表情がとてもなにか云いたげで、ライアンはちくりと胸の痛みを感じた。

 ――抱きしめたい。あんな女とは別れちまえと、抱きしめたくてたまらないと感じる自分が、胸の奥のどこかにいるのがわかる。

 しかし、それは叶わない。ジョシュはストレート、異性愛者ヘテロセクシュアルだ。

 どんなに努力しようが縋ろうが、自分が女性に性的魅力を感じないのと同様、ストレートであるジョシュが自分を愛してくれることなどないと、ライアンは知っていた。そしていつしか、ジョシュのことを諦めたのではなく、友人としてずっと、誰よりも近くにいられればそれでいいと思うようになっていた――或いは、そう自分に言い聞かせていたのかもしれないが。

 一緒にさえいられればいい。顔を見て言葉を交わし、酒を飲んだりして過ごせるだけで充分だ。しかも遊びとはいえバンドをやって、ジョシュと呼吸を合わせて演奏することを楽しめる――こんな最高なことはない。

「……剥がすとき、眉が半分なくなっちまうかもしれないぞ」

 消毒液のボトルを戸棚に戻し、鏡の扉を閉めると、その手を押しのけるようにしてジョシュが鏡を覗きこんだ。

「あっ、ほんとだ。眉の上から貼りやがったな……」

 剥がすと抜けるだろこれ、と焦るジョシュの様子に、ライアンは声をあげて笑った。

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