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終章 「扉」


「職場復帰おめでとう」と花田はさも親切そうに声をかけてきた。


 うなずきだけを返し、業務に集中する。


 みんな私が休職中にどんな道を歩もうとしていたのか、知る由もない。ここにいる誰もが、自分は普通ですなんて顔をして、当たり前に平穏な日々を送れると信じているのだろう。


 私は、女性向け風俗に溺れた日々を、決して誰にも話さない。白くんはもう私の前にいないし、彼の存在を知られて、あからさまな偏見の目を向けられるのが我慢ならない。


 私がかつて愛した男の人は、ついに本名を私に教えなかった。


 知っていたのは、顔と偽名だけ。そして少しだけ知らされた過去の断片だけ。それでいいと思った。彼に執着していた頃と比べて、私の気持ちは凪いでいた。


 結果として、最後まで抱かれることはなかったけれど。


 彼の一切を抱きしめることは叶わなかったけれど。


 私は片思いだった。


 白くんの心には店長がいた。


 店長としゃべるたび、白くんがどことなく嬉しそうに、愛おしそうに、上ずった声で「香さん」と呼ぶのが、切なかった。


 しかし私は、店長に嫉妬しなかった。生きてきた道、存在感の何もかもが格の違う女性だと思ったからだ。彼女は私などでは想像もできないほどの修羅場を乗り越えてきたのだろうと思わせる、有無を言わせぬ底知れなさがあった。


 だから私もあきらめた。白くんと店長の間には、花の蜜のような甘い匂いが立ち込めていた。


 それを見た瞬間、もう、いいなと悟った。


 がんばるのはこれで終わりにしようと。


 普段の生活に戻れた私を、誰かは幸運だと思うだろうか。ずるいとなじるだろうか。それもすべてどうでもいいけれど。


 また、唇をかみしめて作業に耐える毎日が始まる。下を向いて人の顔を見ないようにする努力が始まる。踏み外そうと決意したはずの道は、強引に私を引き戻して、再び歩かせ始めた。




 午前中に大きなミスが発覚し、部署中を動員してリカバリーが行われた。私も駆り出され、得意先に平謝りに行った。


 昼休憩を大幅に過ぎ、腹の虫がおさまらないところを無理に食事をとって午後の仕事に入る。いつも通りの地獄。どこにでもある、ごくありふれた苦行。「つらいのはみんな同じ」とかいった言葉を、私はすでに徹底的に無視している。私のつらさは私のもので、他人のつらさと比較したところで楽になるわけではない。そういう天秤で測るような真似はそもそもしたくないのだ。誰にもわかるわけはないと思うが。


 時計の針は正常に動き、どんなに嫌な時間も平等に通り過ぎていく。気がつけば定時を越えていくらか経った、夜の初めになっていた。


 正社員のメンバーが肩の荷を下ろし始める。どうにか本日分の取り返しはついたからだ。


「尻ぬぐいするのはいつもこっちなんだから」


 女子社員たちは口々に職場の不満や今日一日の愚痴をこぼし始めた。仲間たちがそれに乗っかり、場の空気は憂さ晴らしのはけ口に取って代わる。


 身の回りを整理し、早く退散しようとタイムカードを押した。周りへの同調など知ったことではない。


 入れ違いに、花田がやってきた。


 私を見ると「お疲れ。もう帰るの?」と疑問を投げてくる。まるでそうする私が変わり者で、おかしいかのように。


 帰りますけど、との意を込めて私は首を動かす。うなずく私に、花田は思ってもない言葉をかけた。


「同期メンバーで飲みに行く約束をしてたんだけどさ、影山さんも来なよ。ずっと一緒にご飯食べれてないからさ」


 身がこわばる。


 彼女が、この笑顔の裏でどんな打算をしているのか、図りかねていた。根暗な私を入れて、仲間内でいびるのが狙いか。それともその日の食事代をまとめて私に請求する気かもしれない。そうだ、そうに違いない。


「今日は、ちょっと、疲れちゃって。体力が、あの」


 しどろもどろに断る私を、花田は読めない表情で見つめる。


「そっかあ、ゆっくり休んでね。あ、あと、これも渡しておきたくて」


 花田はバッグから綺麗に包装された小包を取り出した。


 固まる私に、それを差し出す。


「みんなに配ってるんだ。私、連続して有給取った日あったでしょ? その時買ってきたやつ」


 その言葉を聞いて、脳裏に浮かんだのは、遥か昔に経験した小学生時代の苦い記憶だった。


(影山、これやるよ)


 虫が大量に詰められた小箱。開けた瞬間に悲鳴を上げた私を、遠くから笑い続けるクラスの女子たち。大声を上げてはやし立てる男子たち。


(おまえにプレゼント渡すやつなんて、いるわけねーじゃん)


(男子、ふざけ過ぎー)


(あーあ、泣いちゃった)


 笑い声は次第に私の耳を否応なく攻撃し続ける。耳をふさいでも、彼らの声が大き過ぎて拒絶することもできない。ただ泣くしかない、無力でみじめな子どもの私。


「開けてみなよー、影山さん」


 誰かの甲高い声が聞こえる。目を向けなくてもわかる、にやにや笑いの女子たちが固まって私の反応を待っているのだろう。


「いいもの入ってるよ」


 別の誰かがおかしそうに口をはさむ。みんなの視線が背中に突き刺さる。


 手が震えていた。動悸が激しい。息を吸う器官が急に停止したように、酸素が薄くなっていく。


 駄目だ。倒れたくない。でも身体が言うことを聞いてくれない。私は弱い人間の、影山明のままなのか。


(園子さん)


 白くんの声が、フラッシュバックした。


(不安な時は、これを握っているといいですよ)


 彼に差し出された、手乗りサイズの子ブタのぬいぐるみを突然、思い出す。


 そうだ、あの時、白くんが私にプレゼントしてくれた、贈り物。生まれて初めて、本物のプレゼントをもらった、あの日を、私は急に思い返していた。


 子ブタ、あの子、カバンに入ってる。取りに行きたい。でもその前に花田からの小包をどうにかしないといけない。


 目の奥に、白くんの優しい笑顔を思い浮かべた。


 懐かしささえ感じる、美しい儚げな面立ち。握ってくれた手は冷たくて、でもそれが白くんらしいと思えて、ふいに泣きたくなる。


 小包を、開けよう。


 花田の手のひらに乗っている、薄桃色のリボンが巻かれた小箱を、そっと掴む。


 動揺を悟られないように、必死で無表情を取り繕い、私は包みを開けた。


 カサリ、と音がする。


 丸いものだ。けっこうな重さがある。中に白い粉のような粉塵がチラチラ舞っている。


 ゆっくり、手の中にある質量を、確かめる。


「スノードーム」


 花田が答えた。


「十二月だからちょうどいいでしょ? 私それ、好きなんだ。大事に飾ってよ」


 花田はいたずらっぽくおどけて言うと、「今日はお疲れさま」と挨拶をして、女子たちの輪に戻っていった。


 スノードーム。


 振り返る。


 彼女たちの顔を、初めてちゃんと見る。


 スマホで店の場所を探している女子は、いつも快活な声でみんなに分け隔てなく接している子だ。


 花田と楽しそうにしゃべっているもう一人の子は、よく笑う愛嬌のある人で、彼女と一緒にいると和むと評判だった。


「また明日ね」


 花田たちが、私に手を振る。


 ごく自然に、私を人として扱う。


 それが当然であるように、私と目線を合わせ、まっすぐな瞳で、対等に言葉を交わす。


 私は、なぜ世界を無視していたのか。


 花田たちが私のそばを通っていく。かすかに香ってくる品のいい香水。


 今まで、私自身が実際に何らかの被害を被ったわけではないのに、害悪だと思って心を遠ざけていた。そればかりの人生だった。一人きりで生きていくのに慣れ過ぎて、誰かが私の部屋のドアを叩いてくれていることを、気にかける余裕さえ持てなかった。


 根暗な私に声をかけてくれる彼女を、花のように笑い合っている彼女たちの、その健全さを、なぜ今まで見ようとしなかったのか。


 目を、閉じていた。


 暗い世界は、音もなく、光もなく、ただひたすら静かで居心地がよかった。


 それを受け入れていたのは自分だった。誰かを望む一方で、誰も求めてはいなかった。ようやく気づいた。私は寂しいと言っておきながら、どこにも手を伸ばしていなかったのだ。


 歩んできた道も、これから歩む道も、きっと大した違いはないだろう。


 目に入るすべての物事は、私を幸せにはしない。


 幸せなんかないのなら、目の前の一日を生きるほかないのだ。何者かになっていく同世代の人たちを置いて、私自身は私でしかないまま、何の変哲もない道筋をたどっていく。私なんかこのままでいいと。


 孤独でいい。


 一人で生きていける。


 嘘だった。


 目を開ければ、世の中はいつでも騒がしい。


 それでも、そこに生き続ける私たちの存在意義は、あるのではないだろうか。


 確かめたいと思った。


 こんな感情は、生まれて初めてだった。


 花田たちの背を、私は追いかけた。


 踏み出す足が緊張で震えている。伸ばす手が拒絶されないか、確かめる術もないまま、私は声を上げ、彼女たちの名を、一人ひとり呼びかける。


 渡されたスノードームは白い雪の結晶を降らしている。ミニチュアの美しい街並みが、白く淡く、宝石のように私の手の中で光り続けている。




   〇




   了




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