怪我から復帰し、店に戻る頃には騒ぎは完全に鎮静化し、客の足もいつにも増して健在だった。
極楽浄土は、密かな知名度を獲得したようだった。今までと比べて、一見さんが多くなっていた。たいていの客は蘭堂に夢中になるが、白のような中性的な美貌の男を求めるファンも根強く、白も順調に新規の客を獲得していった。
季節は進み、冬になった。
「クリスマスデートがしたい」と早くから約束を取りつけた女性客と並んで街を歩いていた白は、前を行く人々の中に、見知った背中を見つけた。
相変わらず猫背で、うつむきがちに歩いている彼女。
懐かしいと感じた。
彼女も変われないのだ。望むと望まないとに関わらず、自分が自分であることをさらけ出して生きている。取り繕えない生身の人間の存在を感じた。
彼女のそばに、数人の女性たちがいるのに気がついた。職場の同僚だろうか。
話しかけられた彼女は、ふいと横を向く。
白は目を見開いた。
彼女が、笑っていた。
ほんの少しだけ、微笑みに近いほどの静かな表情だったが、確かに笑顔を見せている。
唐突に、脳内に光が走ったような気がした。
『優は、天使みたいな子だね』とささやいた、母の言葉がフラッシュバックした。
母も、本当は彼女のような性格だったのではないか。
知らずに過ごしていたかつての日々が、白の脳裏に浮かび始める。優しく頭を撫でてくれた母の手つき。頬を殴った時の、憎しみすべてをぶつけるような力強さ。
父と、どうやって出会い、結婚するに至ったのか、母はいったい心の奥で何を思い、考えていたのか、欠片も興味を持てなかった親の過去が、白の中に巡る。
お母さん、と、長い間口にできなかった親を、呼びたくなった。
もう、どこで生きているのかも知らないけれど。
つながりさえ持てなくなったけれど。
何もかも許したくなった。
母は、か弱い人だったから。
白は少しだけ目を閉じた。
一呼吸おいて、再び目を開き、世界を見つめる。
女性たちのグループは歩く速度を上げ、白たちから遠ざかっていった。夜の大通りを楽しそうに、軽快な足取りで。
白は彼女を見送った。
懐かしいと、再び思う。
心の中には、穏やかな感情の波が流れていた。
白は隣の客の手を握り、自らのジャケットのポケットに一緒に入れた。恋人つなぎをされた女性客は嬉しそうにはにかむ。
東京の空におあつらえ向きの雪は降らない。空は澄み渡った夜空で、ビルの隙間から星々がチカチカ光っている。都会の空気でも見える強さの星が、白は好きだ。輝かしい人工ネオンの光と溶け合うように、街行く人の何もかもを照らしているように感じる。
自分は意外とロマンチストだから、これぐらいは夢想しても罰は当たらないだろう。
白はふっと笑った。「どうしたの?」と愛おしそうに尋ねる女性客にぴたりと身を添わせて、幸せだと思った。
はたから見たら外れているだろう。まともじゃないと、誰かは軽蔑するだろう。しかしそれでいいとも思う。白が今この瞬間を幸福と捉えているならば、誰に後ろ指をさされても、白は幸福な人間なのだ。
(だから、もう、いいんだ)
白は、姿が見えなくなったあの日の彼女に、再びのさようならを告げた。
またどこかで会うのか、二度と関わり合うことはないのか、白には判断もつかないけれど、あなたが幸福でありますようにと。
女性客と寄り添い合うように、白はクリスマスのイルミネーションを眺めながら、ゆっくりと歩き続けた。
夜が、更けていく。
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