風がかなり寒くなってきたと、白は感じた。季節の変わり目に入るたび、白は、あとどれくらい生きられるだろうと思う。まだ人生の半分にも来ていないと言われても、本当に今の年齢の倍を生きられるのか、誰にも保証はできない。明日はもう来ないかもしれない。確証がないまま自分たちは生きていくのだ。いつの時代でも、きっと。
「寒いねー」
隣で佇む園子に、白は笑いかけた。園子は唇の端を歪に曲げ、それが笑顔を作ろうとした努力からだと多少間があって白は気づいた。
「晩秋ってやつだね。そろそろコートが必要かな」
園子は無言で何度もうなずく。
園子といる時は、香とは違う種類の安心を白は感じていた。彼女はしゃべるのが極端に苦手だから会話らしい会話はできないが、それをしたくない時もある。そういう時、彼女の存在は大きい。白が「ここにいるだけ」を許してくれる。
「園子さんはさ」
話しかけられた彼女は、はっと白の方を見上げる。目が合うと、重い前髪に隠れた瞳がのぞいた。
「どういう学生時代を過ごしたの?」
園子の目は悲しそうに曇る。幸せな日々ではなかったのだろうと、容姿から想像はつくが、白はあえて過去を探ってみたくなった。
「……孤独、で。一人ぼっちで」
そうだろうな、と察しがついた白に、園子は続ける。
「でも、それは全部、私のせいで」
「……どうして?」
不思議に思い、尋ねると、園子はますます情けない表情になった。
「みんな、優しかったから」
園子の声は落ち着いていた。みじめな過去だっただろうけれど、それを懐かしむように訥々と語り始める。
「いじめ、とか、嫌がらせとか、もしされていたら、被害者になれていたのかな。本当に、周りはいい子たち、ばかりで。そういうの、まったく、なくて。ただ、私の扱いに、困ってただけで。私は、無視もされず、優しくしてもらって、そこから先に、進めなかった。友だちという領域に、踏み込むことが、できなかったんです」
園子はふっと自嘲するように息を吐いた。
「だから、誰のせいでもない、私の、責任です」
なおも自分を否定しようとする彼女に、白は言葉を被せる。
「園子さんは、すごく真面目で、生きること自体に真面目過ぎるんだよ」
園子は時が止まったように固まった。瞳がこれ以上ないほど見開かれている。
「もう少し、自分を許してみようよ」
白は笑いかけ、小さな子どもをあやすように諭した。
何となくそういう気分になっていた。
同士のような、妹のような、姉のような、近しい者に感じる情愛。
「みんな、生きるうちに少しずつクズになっていって、でも人として最低限の部分は良くしたくて、何とかかっこつけて、ギリギリ踏ん張って生きてる。そんな程度の努力でじゅうぶんなんじゃないかなあ。
園子さんは、普通の人にはできないレベルの努力をしちゃっているから、本当はすごく偉い人だよね。俺には真似できない。
だから園子さんも、クズになれるところはなってみな。ゆっくりでいいからさ」
園子はぐっと声を詰まらせ、泣きそうな顔になった。
安心したのかと思いきや、彼女の口から意外な台詞が漏れる。
「とっくに、クズです。私」
「……どうして?」
胸が痛む気がした。なぜか彼女が自分自身を責めると、どうしようもない切なさを覚える。何とかしてあげたくなってしまう。
「私、本当は」
園子はとうとう泣き出し、一言ずつ紡ぎ出すように語り始めた。
「まっとうな仕事を、して、まっとうな、暮らしをしろと、言われ続けて。自分でも、それを、疑わなかった。本当は、差別を、していたんです。私の、中に、差別意識、が、あったんです。あの人と、お、同じ、でした。白くんを、どこかで、差別、してました」
そうか、と白は納得する。
彼女はずっと後ろめたさを感じてくれていたのだ。
「あの人と、まったく、同じ、です。ご、ごめんなさい」
「あはは、そんなこといいのに」
本心だった。差別には慣れているし、今さら痛む心もない。それに、それを悪だと自省する人には今まで出会ったことがなかった。
「気にしないで。大丈夫だよ」
貴重な人だと、白は思った。心から園子という人間性を理解したいと願い始めていた。
「びっくりするよね、俺たちの仕事」
園子は懸命に首を振る。
「い、生きているのは、みんな同じなのに」
なおも頭を下げる園子に、白は手のひらをポンと優しく置いた。
「ありがとう。園子さんは、優しい人だ」
冷たい風が吹いた。凍えるような冷気が一瞬、二人の肌を刺す。同じタイミングで身体を震わせた白と園子は、どちらからともなく顔を見合わせた。
寒いねと声をかけようとした白に、園子が先に口を開く。
「あかり、です」
彼女は絞り出すように、はっきりと告げた。
「私の、本名は、影山明といいます」
大きな声だった。彼女なりに最も声を張り上げたつもりなのだろう。世間から量ればそれほどの声量ではなかったが、白にとってはじゅうぶんだった。
影山明。
初めて、ほんの少し近づけた気がした。
「ありがとうね。明さん」
白は名前を呼んだ。
穏やかに、包むように、感謝を述べるように。
出会った時から今までの間で、白はその日、最も優しく明の身体を抱きしめた。
明がおずおずと白の背中に腕を回してくれる。
確かな愛情を感じた。
自分は香が好きだ。これからも、香のために働き、香のために生き、香のための白でいるだろう。それでも今、目の前の明を愛おしく感じている。明の人生を心から応援している。幸せになってほしい。胸の奥が温かくなっていくような、途方もない感情だった。
しばらくの間、二人は抱きしめ合っていた。
どちらからともなく、身体を離す。
白は明に微笑んだ。慈愛と、尊敬の意思を込めて。
明は不器用に唇の端を引き上げた。微笑んでいるつもりなのだろう。彼女らしくて、白は明をまぶしく感じた。
影山明は、生きることに懸命だ。
白は明の頬を取った。びくりとする彼女を落ち着かせるように、優しく指先で撫でる。
これは、感謝のキスだ。
今までと、そしてこれからの関係性においての。
白は、明の額にそっと唇を落とした。
目の前の顔が真っ赤に染まるのを見て、こそばゆい気持ちがした。大人になっても少女のような反応を見せる明がかわいくて、いじらしいと思った。
「幸せになってね」
白は告げた。
明は再び泣きそうな表情になるが、ぐっとこらえるように口を噛み、強くうなずいた。決意の表れだ。白はもう一度微笑んだ。
「ありがとう、ございます」
私に優しくしてくれて。
明はぽつりとつぶやく。消え入りそうな声でも、これまでの彼女の中で、最も確かな感謝の意だった。白はきちんとわかっていた。
「うん」
短い返事だけをして、白は明から離れた。二人は先ほどと同じように肩を並べて立つ。
視界の向こうに、走る人影が見えた。
こんな暗い時間に全速力で走る者がいた。それはみるみるうちにこちらに向かってスピードを上げて近づいてきた。スカートが翻って足が見えている。女だ。長い髪の女。狂ったように二人に走り寄ってくる。
アカリ。
鬼のような形相をしたアカリが、両手にハイヒールの靴を抱えたまま、裸足で駆けつけてきている。
「ア、 アカリさん!?」
白は思わず素っ頓狂な声を上げた。明も絶句して固まっている。
二人の間にはもはや目と鼻の先ほどの距離しかない。
「ちょ、ちょっと待って、アカリさん!」
白が何か言うより先に、真っ赤なハイヒールの靴が二足、すさまじい勢いでこちらに飛んできた。
目にも止まらぬ速さで靴が迫ってくる。
ドゴッ、と音が響き、二人の身体にヒールが命中した。
脳に直接響くようなダイレクトな痛みとともに、白と明は声を上げて悶絶した。激痛は次第にじんじん響くような鈍痛に変わり、視界が暗転するような目のくらみが襲ってきた。
うずくまって痛みに呻く二人の耳に、聞こえる絶叫。
「ざまあああああああああ!!」
アカリの金切り声が夜空に響き渡り、そのまま彼女は火がついたように泣き出した。そして今度は雄叫びのような笑い声を上げ、地面を転げ回って空気を引き裂くように笑い続けた。
騒ぎを聞きつけた通行人が、後に野次馬と化す。極楽浄土の前は騒然とし始め、あちらこちらから人々の注目が彼らに集中した。
〇