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第五章 「神様が、もしいるのなら」2


 梅雨明けの発表がされた日の夜は、気温がいくぶん下がったものの、肌に張りつくような湿気のうっとうしさに街を行く人々は若干だるそうに歩を進めていた。


 傘を差し、勢いの強い雨の中、優とカオルは歩いていく。優は店のビニール傘、彼女はグレーの花柄の折り畳み傘。雨が滴る水音が二人の間を無言にしていく。


「俺の家、もうすぐだから」


「ん」


「こうも雨がすごいとね。話す気なくすよね」


「梅雨は、私は好きよ」


 カオルは店の時とは違う雰囲気の声色を出した。


「雨が降ると、いろいろなものを、休んでいいのかなって思うの」


「休む?」


「ええ」


 カオルの表情は傘に隠れてよく見えないが、あどけないようにも感じた。梅雨が好きなのは、きっと本当だろう。彼女は、あからさまな嘘はつかないように思える。


「ギラギラに晴れた夏より、こういう雨の季節が好き」


「そうなんだ」


 二人はそれきり黙って、歩き続けた。その沈黙は、まったく怖くなかった。居心地のいい、無機質な時間が流れていた。カオルは人を静かにさせるのも得意なようだ。


 優の家に向かう時間は、実際十分程度だった。とても長い間、二人きりで土砂降りの雨の中を寄り添って歩いてきたかに思えたが、アパートはほどなく姿を現し、優はカオルを迎え入れた。


「ごめんね、狭いけど」


「いいわ」


 二人分のタオルを貸し、濡れた部分を拭いて、ワンルームの部屋、再び向かい合う。


「……どうする? もう、ベッド行っちゃう?」


 優はいたずらっぽくカオルに問いかける。


 カオルは優の手を取り、自らの頬に当てた。しっとりとした頬。女の頬。


 柔らかい。甘い。温かい。


「あなたには才能がある」


 ふいに彼女から放たれた言葉に、優は一瞬、虚を突かれた。


「……え?」


 カオルはまっすぐに優を見据えた。


「たぐいまれな才能が」


 もう一度、カオルは伝えた。


 優はわけがわからず硬直してしまう。


「……何言ってるの、カオルさん。俺がそんなすごい人間なわけないじゃん」


 いっそ嘲笑するように、優は吐き捨てた。


 自分の人間性なら嫌というほどわかっている。同情されるほど貧しくて、ひもじくて、けれど憐れまれるのが大嫌いで、プライドのために人を切れる男だ。この先、ずっと生きていたとしても同じ。自分はその程度の人生しか送れないのだ。


 わかっている。世の中の理なら、とっくの昔に。


「そんなににらまないで」


 カオルは悲しげに眉を下げ、笑んだ。優はとっさに目をそらす。


 部屋の中に、しんとした空気が下りる。


「私は、あなたを引き抜きたいの」


 思ってもみなかった内容に、優は息をのんだ。はっと顔を上げると、カオルは確信に満ちたまなざしをこちらに向けている。


「私には、夢があってね」


「……夢?」


「ええ」


 夢、という単語を、久しぶりに聞いた気がする。優が見たくても見れない夢。優には思い描く術さえない、あまりにも遠い夢。


「……どんな夢なの」


 優は尋ねた。


 カオルは真剣に、かつ不敵な笑みを浮かべて答えた。


「いつか、自分の風俗店を開業すること」


 風俗という単語を、カオルの口から聞くとは思わなかった。けれどどこかで、カオルにこれ以上ないほど似合う単語だとも感じた。カオルはなおも読めない表情で微笑む。


「私の親はホストクラブを経営していて、本来だったら跡を継ぐのは一人娘の私なのだけれど、親の店ではなくて、私が一から立ち上げたいお店があるの」


「……お店?」


「そう」


 窓がカタンと揺れた。風が強く吹き始めているのだろう。雨粒がガラスを叩いている。先ほどまでの男女の色事のような空気ではなくなったが、目の前の女のたわごとを、もっと聞いていたくて、優はじっとしていた。


「女性向けの、性風俗サービス店」


 ソープ嬢の男性版を作りたいということだろうか。いまいち店の趣旨を掴められない優に、カオルは説明した。


「レンタル彼氏とか、キス友だちとか、セフレ、いろいろあるでしょ。あれをもっとおもしろくしたいのよね」


 カオルは機嫌よさそうにつぶやく。


「女性を喜ばせるお店。ホストクラブよりも、もっと楽しい思い出をくれる場所よ。すでにそういう仕事を始めている男たちがいるけれど、個人営業のところがほとんど。私は会社として経営したい。男のための性のはけ口がこれほどあふれているのだから、女のための性を解放する場所があってもいいと思わない? 私は、ずっとそう思ってきた。そのために私はいるのだと」


 目の前の女は自信にあふれている。自分自身の人生を、自分のものにしている。誰にも己を捧げていないし、歯向かう相手がいれば屈服させそうな気配さえみなぎらせていた。誰にも邪魔はさせないと、語っていた。


 優は身動きできなかった。


 目を離せなかった。


「私は、あなたをスカウトしに来た。あなたがほしい。逸材だから」


 求められている。


 確かな快感が、よぎった。


 熱い衝動。静かに押し迫る、言葉にできない感情。


 カオルは優の頬を撫でた。


「今は人脈づくりよ。あなたは若すぎるから、もう少しあそこで女性客のための接待を学んで、経験を積んで、年齢を重ねて。色男になったら、迎えに来るわ」


 目を見開く。


 自分でも驚くほど動揺した。


 迎え。


 それはいつだ。迎えなんて、あるのか。自分に未来など。


 優はカオルの腕を掴む。


「今じゃ、駄目なの」


 乞うように、優は食い下がった。


「今、俺をさらってほしい」


 カオルは首を振る。


「時が来るまで待って」


「待てないよ」


 優は泣きそうになった。この人も俺から離れていくのだ。結局、誰もそばにいてはくれないのだ。


「地獄で待たさないで」


 心は疲れていた。安らぎがほしいと思い、果てには暖かな場所で永遠に眠っていたいという願望があった。とにかくここにいたくない。ここではないどこかをずっと夢見ている。


 しかしカオルは一笑した。


「——地獄? おかしな子ね。地獄なんてものはないわ」


「……は?」


 とたん、優の中に不満が湧き起こる。彼女も最終的には偽善的な言葉をつぶやき、こちらを懐柔しようとするのか。


 そんな疑いを見抜くかのように、カオルは続けた。


「あそこは、死んだ人間が行く場所だもの。生きてる人間は天国にも地獄にも行けないわ。そして、ここは地獄じゃない。天国でもない。ただの、日本という国。それだけの話」


 リアリストのような思想にも見えたが、彼女の放つ一言一言には不思議な重みがあり、拒絶できない熱さを感じた。彼女の目が強かった。優は文句も言えず、ただ見とれる。


「自分をかわいそうだと思わない限りは、ずっと幸せなのよ。不幸だと、地獄だと、そう思うのは人生に不利だわ。どんな状況でも、生きていればいい。食べて、寝て、洋服着て歩いていれば、それだけで幸せなの。人間って、本来は原始的だから」


 カオルは優の脇をすり抜け、玄関口へ向かった。帰ろうとしているのだ。


 振り向き、引き留めようとした優を、カオルは圧で黙らせた。


 一瞬の後に、見たことがないほど優しい表情を見せる。


「約束する。あなたが成人になったら、私は迎えに来る。だからあなたも約束して。地獄も天国も考えずに、一日を生きて。時間は過ぎるわ。過ぎたものは過去になり、過去はそのうち美化される。美化された思い出はとてつもなく甘い食べ物よ。大人の楽しみを味わうまでは、生きなさい」


 雨はいつの間にか小降りになっていたらしく、窓の外の音は一切聞こえない。しんとした静寂の中、二人は何も言わずに互いを見つめていた。


 心の中には、不思議な安心感と、切ない期待が半分ずつ溶け合っていた。


 ひたすらに静かな空気。


 優はうなずいた。


 カオルも微笑み、「お邪魔したわ」と玄関のドアを開けて外へ出ていった。




   〇




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