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第四章 「他人の領域」3


 アカリは電話をやったその日に極楽浄土に現れた。


 久しぶりに見た彼女の目に、かつて母親だった人と同じ陰を見た。ぎらついたまなざし、どこか獣じみた獰猛な目つきは、精神を追いつめられた者特有の、理性を失いかけた危うさがよく表れていた。


 アカリは、表面上は大人しく装っていた。受付を済ませ、階段を上って二階へ上がる。指定した部屋にはすでに白が一人で待機している。


 部屋のドアがノックされる音。


「アカリさん? どうぞ」


 白は柔らかく、客の名前を口に出した。なるべく相手を刺激しないために。


 ドアが開かれた。ゆっくりと。


 アカリの鬼気迫った顔色。


 血走った目からは、今にも血涙があふれ出てきそうだ。しばらく見ない間にひどく痩せてしまった。肉感的だった色っぽい肉体は、痛々しいまでに削ぎ落とされている。


「アカリさん」


 白は彼女に呼びかけた。不安定に揺れる瞳がキラリとまばゆく光る。その一瞬だけ、正気だった頃の彼女が重なる。


 アカリは無言で笑みを浮かべた。


「久しぶり、白」


 本日発した一言目。何でもないように挨拶をした後、アカリは一歩ずつこちらに近づいてきた。


「どうして私を避けていたの?」


 アカリの口調には白を責めるような声色は感じられず、純粋な疑問を口にした趣だけがあった。


「ごめんね。スケジュールが立て込んでたんだ」


 白は申し訳なく謝った。嘘偽りなく、心からの謝罪だった。


 アカリは何も言わなくなった。代わりに少しずつ白に歩を進めていく。


 そっと、アカリは白に手を伸ばした。ベッドに腰かけている白の両頬を包むように撫で、感触を確かめるように触れた。


「白は肌の感じが硬くなった」


「はは、老けたかな?」


「ううん、男の肌になったの。大人の肌」


 白はアカリの指に自らの手を重ねる。「俺も会えなくて寂しかった」と常套句をささやき、潤んだ瞳でアカリを見上げる。アカリの痩せこけた頬が目に痛かったが、いちばん美しい女のように熱い視線を注ぐ。


「アカリさん。俺、アカリさんが好きだよ」


 血走った目が少しだけ柔らかな色を見せる。


「嘘つかないで」


「本当だよ。俺はいつでも、お客さんたちを、お金じゃなくて血の通った一人の女性だと思ってる。だから誠意のある対応をしたい。それが俺の仕事の義務だと思うから」


 頭を撫でつける手指がふいに地肌に食い込み、髪の毛を掴まれる。


「誠意のある対応? どんな風に接してくれるのかしら」


 アカリは泣きそうに顔を歪めた。今にも倒れそうな血色の悪い顔色で、白を掴む手の力も震えている。


 こうすることはずいぶん前から決めていた。選んだのは自分自身だ。


 白はアカリの手を握り、甲に口づけた。


「俺を、好きにして。どんなことでもしていいよ。俺は、そのためにいるから」




 窓の外の光は徐々に暗くなっている。今、何時だろうと、ふと思った。長時間この部屋から出ていないのは確かだが、時計を見れないせいで時間の感覚がなくなっていた。両手首に食い込む縄は白の自由を奪い、血の痕を刻み込む。何度打たれたかわからない顔と背中には無数の傷が出来上がっていた。


「綺麗だね」


 アカリはささやくように笑い、もう一度鞭で白を打った。切り裂くような痛みが襲い、白は呻く。アカリは楽しそうに白の反応を見て、なお笑う。


「白は傷ついている方が綺麗」


 髪を掴まれて上を向かされる。アカリは悦に入った表情を見せ、傷だらけの白がかわいくてならないというように力を込めた。


「わかってるよ。最後にしたいんでしょう?」


 白はこくりとうなずいた。


 瞬間、頬を張られた。その痛みはとても懐かしい暴力だった。唇に血がにじんで鉄の味が染みた。


「私もここで終わらせたい。白とはもう別れたい。だから最後にとびっきり嫌な思い出をあげる」


 アカリは白を引き倒し、床に押さえつけた。


 うつぶせに倒れた白の上に馬乗りになり、アカリは耳元で怨念をぶつけるようにささやき始めた。


「子どもが生まれないのは私のせいじゃない。不妊だなんだと決めつけて、自分の精子が死んでるなんて可能性は少しも考えない。私に責任はないわ。全部、全部、あんたのせいよ」


 ああ、混同している。


 白は虚ろになっていく意識の中、アカリをひたすらに憐れんでいた。


 好きな男の区別もできないくらいに、この人は疲れ果てていたのか。自分も夫も、この人にとっては同じ男で、同じほどの害悪でしかなく、憎むと同様に抗いきれないのだ。


 この人も、母も、世界に対して抵抗できなかった。


「無能。無能な生き物。女がいないと子孫を残すこともできないくせに、女よりえらいと思ってる」


 アカリは心底楽しそうな声で白をなじった。彼女と初めて出会った時から今に至るまで、最もはずんだ声だった。きっと今、彼女は生まれて初めて生きていて楽しいと感じているに違いない。


 背中に走る痛み。


 鞭が再び下ろされる気配がした。


「この世でいちばん馬鹿にされているのはあんたたちの方よ。力が強いとか、トップに立ってるとか言ってるけど、その足下で私たちは常にあんたたちを嗤っているから。見下しているから。これほど愚かな生き物はいないって、みんな思ってるわ。あんたたちが精子ぶちまけてる相手は、いつでも心の中であんたたちを犯してるわ。奈落の底に突き落としてやるわ。男に生まれたことを後悔するくらい、ひどい記憶を植えつけてやるわ」


 アカリが話す間、白は襲い続ける鞭打ちにひたすら耐えていた。くぐもった声を出すたびにアカリは嬉しそうに白の背中を触り、爪を立て、苦しく呻くと小鳥のようにクスクス笑った。まるでここが楽園であるかのように、アカリは白を嬲った。「白が好きよ」とつぶやきながら、アカリは気のすむまで自分の鬱憤を晴らし続けた。


 意識が朦朧とする頃、アカリが飽きた気配がした。道具を床に転がし、白から興味を失ったように無言でドアを開け、部屋を立ち去る。


「性奴隷」


 去り際、アカリは吐き捨てた。


 せせら笑うように白を見下げ、「もう来ないから」と捨て台詞を残し、ドアを乱暴に閉めた。


 残されたのは、しんとした静寂。


 白はふいに眠くなり、目を閉じようとした。


 再びドアが開かれる音がし、彼女が戻ってきたのだろうかと視線をやった白の目に、作業着姿が映り込んだ。


「白、くん」


 園子が蒼白な顔で立ち尽くしていた。


「白くん」


 園子の目から一筋の涙が伝い、床に落ちた。


 園子は白に駆け寄り、傷で埋め尽くされた背中に恐る恐る、触れた。


 どうすればいいのかわからないというように、園子は泣く。小さな少女が迷子になって助けを求めるような、そんな錯覚を覚えた。


「アカリさんを、許してあげて」


 白が弱々しくつぶやいた言葉を、園子は首を振って拒む。


「で、できません。許せません」


 園子はしゃくり上げながら、アカリへの怒りを示した。珍しいな、初めて見たな、園子さんが怒ってるの、と白は新鮮な気持ちで目の前の作業着を見上げる。掃除用アルコールの匂いと園子の身体の匂いが混じった、生活の匂いがした。自分にはそのような匂いがなかった。あるのは高い香水と、今立ち込めている血の匂いだけだった。


 自分にないもの。園子にあるもの。


 羨ましかったのかもしれない。


 絶望も希望もなく、ただ淡々と一日を生きていく園子の、堅実な人生を、本当はずっと欲していたのだ。


 白は目を閉じた。


 ひどい眠気を感じていた。


「俺が、この仕事を始めたのは」


 途切れ途切れに白は話し出した。園子に打ち明けたい気分になっていた。


 園子は黙って聞いている。


「母親への、罪滅ぼし」


 しんとした部屋に、園子のすすり泣く声だけが響いている。


「俺が捨てたから」


 白は淡々と告げた。過去を話す気になっている自分に、白自身驚いていた。


「今どこで何してるかわからない、家族に、もう会う気はないけど、せめてもの謝罪のつもりで、アカリさんのストレス発散を受けてた」


 それから、白は身の上話を園子に語り始めた。


 園子が縄をほどいてくれ、自由になった腕で洋服を着る。頬にできた打ち身の痕を隠すように手をかざし、ゆっくりと立ち上がる。身体が悲鳴を上げたが、無理して動かす。園子がさりげなく支えてくれた。白は「ありがとう」と笑いかけようとし、無理に引きつった頬に熱いものが流れた。涙が伝ったのだとわかるまでに多少の時間がかかった。


 窓の外から、冷えた外気が壁を伝って二人の肌を撫でた。




   〇





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