感触を確かめるように少し強く吸われて、身じろぎして逃げようとするのを肩に置かれた手に抑え込まれた。決して乱暴ではなく、労わるように、気遣うように、ここにいてと願われるように肩を抱き込まれる。どうすることもできなくて、ただじっと耐えた。自分がキスに感じているのかいないのか、判断できなくて、ひたすら受け身のまま時間の流れを感じていた。
顔が離れて、私は手を引かれ、ソファーから立ち上がった。白くんにベッドに連れて行かれる。ゆっくりとシーツに押し倒され、彼が上に乗っかってきた。まるで少女の頬をなでるような手つきで、齢三十間際の私の顔を両手のひらで包んで、むにっと揉むと悪戯っ子のように微笑む。「園子さん、かわいい」とつぶやき、再び顔を近づけた白くんを、拒む選択肢は脳内に残されてなかった。
キスは優しかった。気持ちよかった。この仕事をずっと続けていたのだなと察せるくらい、行為には私への配慮も労わりも感じられて、嬉しかったし、喪女のまま枯れていく一方の自分の自尊心を取り戻せた気がした。
だから、後悔はなかった。
迷いもなかった。
彼の手つきがだんだんと下の方に移動していくことも、私は待ち望んでいた。
バスローブは解かれていて、決して若くも美しくもない私のだらしない肢体が白くんの眼前に晒されていた。顔を背けることもできない、緊張の一瞬が私の意識を固まらせる。けれど白くんは嫌な顔一つ見せず、本物の天使のような慈悲深き笑みさえ携えて、私を見つめていた。
彼の、細くて節ばった指が肌を触った。脳が沸騰するかのような熱さを持ち、肌のあちこちが彼の指先に翻弄されて、声にならない声が漏れた。自分じゃないみたいだ。体温に、ふれた。人の体温にふれることができた。そう思った。何も持たない私。何もできない私が、赤の他人の、美しい男の肌に触れている。狂気に落ちてもいいと思った。他には何もいらない。今ここで死んでもいい。明日よ、来るな。
気づいたら、泣いていた。目から大粒の水滴があふれ出ていた。嬉しくて、嬉し過ぎて、逆にすごく寒かった。裸だからだろうか、部屋の気温が直に肌に響いて、冷気が射すような感じがして寒気を覚えた。
どうして。私、今すごく幸せなはずなのに。
涙は止まるどころかさらにあふれてきて、自分自身の気持ちを持て余した。自分の意思がどこにあるのか、涙腺をコントロールできずに私は途方に暮れた。
「やめよう」
白くんの声が聞こえた。
え、と思っているうちに彼は私を抱き起こし、バスローブを着させた。次いで身体を包むように抱きしめられる。
「怖い思いさせちゃったね。ごめんね」
違う。何言ってるの、白くん。
勘違いだよ。
私が馬鹿な反応しちゃっただけ。嬉しかったんだよ。白くんに触られたいから、続けてよ。もっと、触れてよ。
呆然とする私に、白くんは申し訳ないように微笑む。それはひどく苦しそうな笑顔だった。まるで白くんも同じように泣いているようだ。
「や、やめないで、いいから」
やっと言葉を絞り出し、白くんにすがりつく。しかしその手はゆっくりと振り解かれ、私は彼と向かい合って座らされた。
私は必死に言い訳を探した。
「やめないで。お願い。やめないで」
懇願する私を、白くんがどういう目で見つめているのか怖くて、視線を合わせられずにいた。恥もプライドも最初からない。そんなものはとっくにズタズタだ。生まれた時から、私は人生に失敗し続けている。
「私、いい歳こいて、処女なのが、もう嫌で。何か変わるんじゃないかって思って、どうにでもなれって気持ちで、ベッドにいるんだから、急に、やめないで。私、気持ち悪い? 身体、臭い? もっとちゃんと洗うから、男の人と寝たって事実が、ほしい」
伝えたいことをうまく伝えきれずにどもりながら、言葉の選択もよく考えずに、ただ思ってることを吐き出した。
「私を、人間にして」
真っ当に生きれない自分を、めちゃくちゃに扱って壊してほしい。
破滅への道。
正気を失いたい。
それを叶えるのは、白くん、あなただ。
「いつから?」
「……え?」
「いつから、自分をそんなに否定するようになったの?」
言われた意味がわからず、絶句していると、彼も言葉を続けるのがつらくなったように、しばし無言でいた。
白くんはベッドの縁に座り直し、何をするでもなくどこか虚空を見つめながら、再び私に話しかける。
「園子さん、自分に対しての評価がすごく低いから、何かあったのかなって。俺を指名するお客さん、多いんだ。そういう人。もともと、このお店に来ること自体、満たされてない証拠なんだけどね」
「そ、そう、なの?」
「幸せな人は、そもそも女性向け風俗なんかに来ないよ。存在も知らない人が多いんじゃないかな」
それは一理あると思った。実際、私もつい最近までそんな風俗店があるなんてつゆほども知らなかった。知っていたら、もっと早くから羞恥心を脱ぎ捨てて白くんを見つけ出せたのに。
何で行為をやめたの、と聞こうとして彼の顔を眺める。口から言葉を出そうとする前に、白くんは傷ついたような苦笑いを浮かべた。
「園子さん、嫌がってるでしょ。触られるの」
一瞬、何を話しているのかわからず、脳みそが受け答えを拒絶しかけているのをこらえて、私は懸命に訴えた。
「嫌じゃ、ないです」
「嘘。身体がこわばってるから、わかるよ。園子さんは、本当は性行為をしたいわけじゃないと思う」
きっぱりと言われて、私は途方に暮れた。それなら自分は何を欲しているというのか。あなたに抱かれるために、それなりに身だしなみを整えて風呂にも毎日念入りに入ってスキンケアも気合を入れて、今日を迎えたというのに、なぜ今になって私を拒絶するのか。
抱き合うのが嫌なのは、白くん、あなたの方ではないのか。
喉まで出かかった言葉を、ぶつけようにもぶつけられず、私は唇を噛んだ。猛烈に悔しい気持ちがせり上がって、思わず泣きそうになった。けれどここで泣いたらまた白くんは私をかわいそうだと思って、頭を撫でてくれるだろう。そんな行為はもう受け入れがたかった。
私、かわいそうなんかじゃない。
ベッドから降りる。驚いたようにこちらを見上げる白くんの前に回り込んで、なけなしの勇気を振り絞った。
「白くん、が、好きです」
つっかえながら、どもりながら、自分の気持ちを伝えた。心臓が割れるほど高鳴り、頭が沸騰したように熱い。ついさっき彼に拒絶された悔しさと怒りに触発されて、好きだけじゃない、彼への憎しみもふつふつと沸き上がってきていた。
「白くん、なんか、大好きです。きっと一生好きです」
金で事足りる関係だけじゃ、もう満足できない。
「同じ世界に、いたい」
初めて自分の中に生じた、欲望だった。
この人と同じ場所に立ちたい。
この人を、自分のものにしたい。
この人だけのものになりたい。
彼を好きになってる。他には何もいらないぐらいに。対等に見られたいほどに。恋心を抱くことがこれほど激しく、痛切な思いだなんて知らなかった。
「白くんと、ずっと一緒にいたい」
私は頭を下げ、懇願した。
水を打ったような静けさが部屋に満ちた。彼が今どんな表情でこちらを見ているのか、怖くて顔を上げられなかったけれど、後悔はしていなかった。後は、白くんがどう受け止めるかだ。私はただ待つことしかできない。
死んでしまいそうなほどの息苦しい沈黙の時間だった。
「入りたい?」
しんとした無の空気を破って発せられた台詞は、予想もしていなかった内容で、意図を理解するのに数秒かかった。
おそるおそる視線を合わせると、白くんは、今までに見たことのない無表情でこちらを見上げていた。
何も、ない。
空虚な顔色だった。
「この世界に、入ってみたい?」
白くんの声はまるで死人のようだった。長く生き過ぎたゆえに、活力のない枯れ果てた老人の声にも似ていた。
私は身動き一つできず、固まっていた。
「ここには、同士がたくさんいるよ。同じ穴の
何でそんなこと言うの、と言いかけて、やっぱりやめる。私はこの人を何も知らない。客とキャストでしかありえない。だからこの人が内側にどんな闇を抱えていようと、私は、自分以上に価値のない人間など他にいない自信があるから、この人を美しいと思える。闇のない人などいないから。
「俺も、園子さんのこと好きだよ」
胸が詰まった。
そう言ってくれるのを待っていた。望んで、望んで、狂うほど焦がれた愛情。白くんがそれをくれるなら、私も今持っているものをすべて捨てる覚悟があった。
選択肢なんか、何一つ残されていない。もとから私に安住の地などなかったのだ。
「同じ世界に来てくれるなら、もっと好きになれるよ、園子さんを」
再び、泣きそうになった。
うなずきだけを返した。
こみ上げてくる愛おしさ。しびれるような喜びを胸に、私は下を向いた。
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