東京から離れて、私たちは『極楽浄土』本店が構える南武線の電車に乗った。車内は混雑しているわけではなかったが、この路線は走行中の揺れが少しばかり激しいため、よく車酔いに似た気持ち悪さを起こしてしまう。あらかじめ白くんに伝えていたためか、彼は「身体預けていいよ」と私に甘いささやきをくれる。肩にもたれながら、閉まるドアを見るともなしに見つめた。
日が落ちるのだなと、暗くなっていく車窓の景色を見て、思った。男性経験を得るという長年の夢が今まさに叶うところで、だからといってそれがどうしたという意地悪な無意識の自分が、表の自分を苛める。いっそ楽になってしまいたい。まるで拷問のような物々しい時間だった。幸せであればあるほど、先の不幸を想像して今がいっそう苦しくなるのはなぜなんだ。
電車は着実に『極楽浄土』への最寄り駅まで近づいていく。
「園子さん」
白くんがふいに笑いかけた。
ドギマギして反応すると、
「緊張してる?」
こちらを労わりつつも少しばかり悪戯めいて瞬く瞳が、私を見つめていた。
何も言えず黙っていると、「俺もね、実はね、緊張してるんだ」と信じられないような返答が来た。
目を見開き、私は彼を凝視する。すると苦笑を返された。
「だって、その、こういうのは拒絶されたらどうしようって、やっぱり最初は怖いよ。園子さんだけじゃなくて、俺も人並みに怖いものがいろいろあるよ」
「……うん」
白くんみたいな、天使のような美貌を持つ子でも、たくさんの思いを抱えているのだろうか。歪で不安定な私と同じように?
納得しようとして、けれどまだむずがゆい抵抗の中に沈んでいる自分もいて、結局曖昧に白くんの言葉を聞くしかなかった。
電車は東京圏内からすでに南へ下っていた。街角はそれほど変わらない景色でも、外へ出ればあの日のように熱っぽい風を受けることだろう。その時、東京を離れたんだと、私は実感するのかもしれない。
最寄り駅に着いた。
辺りは宵の口に入ろうとしていた。
電車を降りて改札を通る。白くんは再び私の手を握った。お互いに絡み合う指から温度の違う熱が伝わって、私は燃えるように熱いけれど、白くんはちょっと冷えてるなと、感覚の違いを思い知った。
外に出ると、六月だと思える湿気だった。とにかく蒸し暑く、気温自体は高すぎることはなくとも、肌がじっとりと濡れていく感じがして、早くも汗が垂れた。
表通りを横にそれて、裏路地に入る。道端でところどころに居着いて座りこむ若者と、隅の方で一人うなだれたようにうずくまっているホームレス。器用に避けて目的地へ急ぐ白くんと私。ここは光の差さない奈落の底だ。あと一歩間違えば、私も彼らと同じように墜落していく一方なのだ。人生を上るのはこんなにも過酷で、息切れしそうなのに、一度足を踏み外すと歯止めが効かないほど転がり落ちてしまうのはなぜだ。
私は、落ちていいのだろうか。
本当に、身体を差し出して、後悔しないだろうか。
白くんを信用している。——本当に?
自分の声を確かなものにする根拠を持てなかった。
焦げ茶のコンクリートの建物が見える。『極楽浄土』だ。いつ見ても古民家のカフェのようにしか思えない、女性向け風俗店。
店長は、どんな人間なのだろう。
突然、素朴な疑問が湧いて、人に対する興味がまだ残っていた事実に驚く。
白くんをこの店に迎え入れた人は、そもそもいったい何の意図があって、女性向け風俗店を営業しようと思ったのか。男なのか、女なのか。
シャッターをくぐる。白くんに連れられて私も店内に足を踏み入れる。
この前見た通り、受付スタッフが二名仕事をしている。白くんと私を見ると、すべてわかっていますよというように空いている部屋の鍵を渡す。白くんは慣れた手つきで受け取って、私を案内しようとしたところで「白くん」と受付の一人に呼びかけられた。
「何?」
「ちょっと緊急の連絡」
「わかった。園子さん、ごめんね。少しここで待ってて」
「は、はい」
私は隅の壁際に寄り、所在なく白くんの後ろ姿を眺めた。スタッフたちは何やら忙しそうに話し込んでいる。トラブルでも起こったのだろうか。
スタッフの一人に受話器を渡された白くんは、とても甘く優しい声で応対している。まるで本物の恋人に接するみたいに。聞きたくなくても、電話の向こうは彼の数多くいる一人の顧客なのだとわかってしまう。
「アカリさん」
白くんの口から、私の名前がつぶやかれた。
心臓を鷲掴みにされたような驚きが上がって、飛び上がりそうになった。すぐにそれは私の名前ではなく、白くんと今話している電話の相手の名前だと知る。シークレットネームなのか、本名かはわからない。ただ「アカリ」と発せられた彼の口調が艶やかな色合いできらめいている気がして、心がまだドキドキしてる。
「今週は、ちょっと会えないけれど。でも永遠に予定が空かないわけじゃないから、また会えるよ。連絡、絶対するからさ、あまり思いつめないで。今日は、スケジュール詰まってて。——うん。アカリさんのこと好きだよ。人として応援してるよ」
耳にイヤホンをぶち込みたい。否応なしに現実に引き戻されるきっかけを作りたくない。私は白くんの顧客。もっとわがままに振る舞ってもいいのではないだろうか。白くんはキャストとして私に親切に対応する義務がある。あのアカリって人と同じように。
どれほど待っていたのかわからない。気づくと私の意識は半分飛んでいて、今が何日でここがどこなのか忘れかけていた。目を開けたまま死んだように壁際に突っ立っている私を、行為終わりの他の客とキャストが入れ違いに通り過ぎて行き、人の出入りが少し落ち着いたところで白くんが戻ってきた。
「電話、長引いてごめんね」
白くんは両手を合わせてこちらに許しを請うポーズを見せる。「うん、大丈夫」と私はかすれた声で言って、口の端を引き上げようとがんばる。うまくできなかったけれど。
「今日、園子さんのこと困らせてばっかりだから、部屋に入ったら俺のこと好きにしていいよ」
白くんは申しわけなさそうに私の手を取って、まるでそれが免罪符であるかのようにのたまった。どう答えればいいのか判断しかねて、私は彼を凝視する。
白くんの笑顔はなおも優しくて、迷いがなかった。
「生活の鬱憤とか、いろいろなストレス、俺にぶつけていいよ。俺で憂さ晴らしして」
「……憂さ晴らし、というのは」
「普段できないこともしていいよ。ひどい行為も受けてあげるよ。俺はそのためにここにいるから」
白くんは私の手を握って、エレベーターに歩き出す。ドアが開いて、私たちは中に入り、階のボタンを押す。「今日は四階の二号室ね」と白くんは部屋の鍵番号を見せて、私はうなずいて、再び身体が密着する。白くんが恋人同士の空気を演出させようとしている。私の肩を抱いてそれとなく撫でたり、こちらを意識した瞳を向けている。
四階に着いた。
廊下の窓から見える外はすでに暗い。
太陽も、自分も、もう沈んだんだ。
アカリって誰なの、とは聞けなかった。ルール上、他の客のことは無視しなければならないし、何よりも私にそんな勇気はなかった。
ドアを開け、部屋に通される。白くんは「先にシャワー浴びる? それとも何か飲む?」とごく自然に私をリードしようと努めている。私は「……シャ、シャワー」とどもりながら答えて、脱衣所に逃げた。震える指で服のボタンを外す。そもそもどれくらい身体を洗えばいいのかわからない。ボディソープで泡立てて本格的に洗った方がいいのか、湯を当てるだけでいいのか、時間は何分を目安に風呂場を出た方が妥当なのか。何も教えられてない私は混乱する意識の中で、とにかく自分が臭くなければいいと願った。
お湯はまるで温泉のシャワーみたいに肌当たりのいい水圧で気持ちよかった。緊張でこわばっている自分の心ともども温かい湯で洗い流し、包んでくれるみたいだ。
泣きたくなるような気持ちを抱いて、風呂場を出て備えつけのバスローブに着替える。
白くんが交代で風呂場に入って、私はカップルの同棲を演出した小さな部屋の真ん中のソファーに所在なく座った。テーブルには彼が用意してくれた飲み物が二人分置かれていて、緑茶の方を選んで飲んだ。心地よい苦みとうまみが喉を滑り、本物の二人暮らしだったらいいのにと陶酔しかけた。
ここの設営費用や管理費などは、どこで賄っているのだろう。女性客からのギャラで本当に回していけるだろうか。
知ろうとすればするほど、底なし沼のいちばん下を覗いてしまうんじゃないかと気が気でなかった。そのくせ一度気になると奥歯にものが挟まったみたいにすっきりしない。
彼らは、どうやって生計を立てて、生きているのだろう。
「真っ当な人間じゃない」と、脳内に親の声が響いた。
小さい頃から、親はまともな人間になりなさいと私に言い聞かせていた。恥ずかしいことをしないでと。人様に顔向けできないようなことをするなと。
私が、学校に行けない不登校児になったり、就職浪人で何にも所属しない人間になると、「恥ずかしい」とひたすら言い続けた。
「そんなことでどうするの。社会でやっていけませんよ」
「社会に通用しない人間になるな」
刷り込まれたそれらの台詞は、私を縛り上げ、何かの組織に所属して働かないといけない使命を叩き込ませた。
(聞き飽きた。その台詞はもう、うんざりするくらい)
(親なんて、家族なんて、大嫌いだ)
誰も好きになったことがない。誰も愛したことがない。この世には私の敵ばかりが幸せそうに生きている。
堕ちたい。
どうしようもないクズになりたい。
「また考え事してる」
はっと気づくと、白くんがシャワーを終えて私のそばに近づいていた。
バスローブを着た彼は、私なんかと比較にならないぐらい顔立ちの素材の良さが生きていて、湯上がりの少し火照った匂いも、男性的なエロスを誘わせた。
「園子さん、何かを考えてる時、色気が出ますね」
白くんはそう告げると、私をそっと抱き寄せた。
男の身体だ。
男の匂いだ。
額に柔らかい感触が押し当てられる。
白くんの唇が私の額に触れていた。
夢にまで見た瞬間だった。くすぐったくて、こそばゆくて、どうにかなってしまいそうだった。白くんの指先がつー、と私の頬を撫でて、下に降りていって、首筋を優しく触った。それに合わせて唇も順を辿って私を甘やかした。
白くん、スイッチ入ってる。
彼の瞳に覗きこまれて、視線と視線が絡み合った。熱の入った目の色が、これがお前の男だよと言っているような、有無を言わせない強い圧を感じた。
仕事の顔だ。
彼の顔が近づいてくる。
どうしたらいいかわからず、私は馬鹿みたいに硬直していた。
身体中が緊張のせいで石のようになっていた。
白くんの顔はもう目の前だ。
目を閉じるのも忘れて、彼のキスが私の口に合わさってくるのをぼうっと感じていた。
柔らかくて、温かくて、生々しかった。