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第三章 「あなた無しでは生きてゆけぬ」1


 結局、三回目のデートができたのは梅雨に入る頃だった。


 その時期になると雨はうっとうしいし湿気は肌にまとわりつくようで気持ち悪いし、気分的にはこれ以上ないほど悪かった。


 かろうじて街に出れるのは、誇張でも何でもなく、白くんに会えるからだった。


 私は一つ、決心していた。


 白くんとの思い出をもらうことを。


 つまりは、白くんに抱いてもらうことを。


 厳密にいえば、『極楽浄土』は本番行為を禁止しているから、抱かれるわけではないのだが、キスとそれ以上の行為はできるので、白くんに触られるのを目的に本日のデートを申し込んだ。


 レンタル彼氏のプランじゃない。デリバリーヘルスの料金だ。


 大金をつぎ込んだ。


 後悔はなかった。


 私は、嫉妬していた。彼を指名している他の客たちに。見当違いもはなはだしいのは百も承知だが、それでも白くんを独占できる時間と条件がほしかった。金でそれが叶うなら、もう、貯金なんてどうでもいいのだ。私自身は、どうなっても。


 腕時計の針はそろそろ待ち合わせ時刻を指そうとしている。


 約束の時間を少々遅れて、白くんは現れた。シンプルな服装ながら佇まいは爽やかで、身につけている小物類が高そうに見えた。


「ごめんね、遅れて」


「大丈夫、です」


 白くんはふふっと笑う。


「園子さん、ずっと俺に敬語だよね。年下に気遣わなくていいのに」


 気遣いでなく、誰に対しても私は対等に話せないのだと、わかってもらえなくて別によかった。私はただ白くんと一緒にいたいだけで、理解とか許容とか、求めてない。


 曖昧に笑おうとして、口もとが引きつっただけの不気味な表情になる。


 今日のプランはデートコースとお泊まりコースだ。長時間キャストを拘束するため、値段も今までにないくらい高くついた。これからの生活が苦しくなるほどの金額だ。少しの恐怖と不安と、一日彼のそばにいられる幸福感。


 白くんは私の手をぎゅっと握り、「どこに行こうか?」と無邪気に尋ねる。


「映画館、に」


「いいね! 何観たい?」


「あ、これ、を」


「この作品は初めて知ったなあ。園子さんに教えてもらってよかった」


 私たちは手をつなぎ、正統派のカップルのふりをして東京郊外の街並みを歩く。梅雨空にも関わらず、太陽が雲間から少しの間覗き、陽光が射した。一瞬、世界が明るく見えて、でもそれはただの幻で、金でつながった私たちの関係はシビアで儚い。白くんは私から解放された後、別の誰かのものになって、対価をもらって白くんの人生を生きる。そこに関わらせてもらうだけでいいと思いながら、一方で、危険な領域に踏み込んでしまいたいと思う自分を、汚いと、改めて感じる。みじめな私をやめられない自分自身が、かわいそうで、その哀れさに酔いしれている今この瞬間が、やっぱり気持ちよくて、手放せなかった。


 白くんと一緒にいたい。


 間違いでもいいから。




   〇




 映画館の中は平日でありながら混んでいた。目白押しのラインナップがたくさんあるからだろう。館内は子ども連れの家族や若者がたくさんいた。


 カップルで来ている者も見かける。この中の何割が「本当に愛し合っている二人」なのか。私のように金で彼氏を借りている女はいるのだろうか。意地の悪い妄想が頭を巡る。


 何人かが白くんとすれ違う時に、ちらっと彼の美貌に見とれている。そのまま視線は隣の私に流れ、怪訝な表情を投げる。そうだろうな、と自分でも思う。意識の低い服装とメイク、お世辞にも垢抜けているといえない女がなぜ、白くんみたいな人と? そう思う人たちは、さっきの私みたいに「この女はレンタル彼氏でも借りてきたんだろうな」と想像しているだろう。お互い様だ。互いに汚い人間でいいじゃないか。


 劇場内に入り、白くんと二人で前列側の座席に着く。


 私は、病院に一緒に行った時、彼から手渡された子ブタのぬいぐるみを持ってきていた。不安な時、緊張が強い時に鞄の中で握りしめると落ち着いた。彼にお礼を言いたくて、劇場内が暗転する間際、ぼそっと告げる。


「子ブタ、ありがとう、ございます」


「ん? あ、ぬいぐるみ?」


「はい」


「気に入ってくれたようでよかった。手のひらサイズが園子さんっぽくて、可愛いと思ったんだ」


「え?」


 きょとんと彼を見ると、にこっとした完璧なスマイルが降ってくる。


「園子さん、大人の女性だけど、何だか小動物っぽくて放っておけない感じ。それ抱きしめてる時は、俺のこと思い出してね」


「……はい」


 完璧なフレーズの美辞麗句に、いっそ完全に馬鹿な頭になれたなら、どんなによかっただろう。


 この人を独り占めしたい。


 そう思わせるのが目的なのだ。女性向け風俗は。わかっていて飛び込んだのだから、誰を責める理由もない。すべて私が傷つくしかない。


 本編の前座の、予告宣伝が始まった。


 白くんと手をつなぎたい。


 座席のひじ掛けを挟んで、私たちは同じ映像を見ている。映画を観るのは、本当は口実で、どうしてもこの作品を欲しているわけではなかった。流行りの恋愛ものはデートにちょうどいいのだ。そのくらい、男性と関係を持てたことのない「喪女」の私でも承知している。隣に誰かがいてほしい。できればそれが彼氏であってほしい。


 自分が求めているものは、何なのか。


 慰めや、その場しのぎなのか。


 違う。


 白くんだ。愛しい人との、本物の愛情を育む穏やかな生活だ。


 気づいていた。お金だけではもうつなぎ留められない。


 貯金の限界が来ていた。


 賭けだった。この後、私のこれからはどうなっていくのか。考えるのも拒否できてしまうほど、目の前の未知に飛び込もうとしていた。


 映画本編が始まる。ヒロインが絶望の底に突き落とされるのを覚悟した上で、危険な男にほだされていく。女の奥底の願望、と映画評論家が辛口でレビューしていた作品だ。あなたたちにはわからないだろうなと、私の中の情念が世の男たちを糾弾する。私たちは恋をしたくてしているわけではなく、かつ不幸になりたくて蛇の道に行くわけではない。抗えないのだ。気づいたら、破滅に堕ちている。身体中の神経細胞が、理性を超越して、好きな男の魔的な魅力に反応するのだ。恋に落ちるという言葉通りに、一目惚れだったり徐々に惹かれたり、段階はいろいろあっても、引き返すに引き返せないデッドレースにはまっていく。男を欲する。そんな女を誰もが軽蔑する一方で、誰もがどこかで共感している。


 本編は二時間以内に終了した。白くんが私の顔を見て「出る?」と聞く。うなずいて、劇場を後にする。


 外に出ると、六月の湿気が肌にまとわりついてきた。暑いねえ、と白くんが苦笑する。


「少し早めの夕飯でもいただきますか」


「はい」


 夏の気配はすでに濃厚で、夕方の街はまだ明るい。ぬるい風が私たちの髪をなびかせ、どこかへ通っていく。白くんは「俺この店行きたいな」と私の財布事情を考慮したリーズナブルなレストランを指定してくれた。『極楽浄土』のルールは、キャストを買った間は客がすべての金銭を負担する。だから今日の映画代も食事代もすべて私持ちである。夢の時間にはお金が必要なのだ。


 店内に入り、私たちはディナーにいそしんだ。白くんは先ほどの作品の感想を、私の気分を害しないように楽しい言葉を選んで持ち上げてくれた。その話しぶりは心地よくて、キャストとしてのキャリアを感じさせる、職人並みの丁寧さがあった。


 白くんは、いつから『極楽浄土』にいるのだろう。


 ふと湧いてきた疑問を、とても口にはできなくて、私は彼のトークをしばらく曖昧に笑って返していた。


「……疲れちゃった?」


「……そんなこと」


「園子さん、繊細そうだから。早めにホテル帰ろうか」


 外の世界は刺激でいっぱいだからね、ずっといるのは無理だよね。白くんは私に合わせて食事のスピードも緩めてくれる。


 もごもごと口ごもり、いらぬ返事を返してしまった。


「別のことが、気になって」


「別って?」


「いや、たいしたことじゃないです」


 聞けない。キャストのプライバシーに関わる質問をしてはいけない。私は堅く口をつぐんだ。


「園子さんと、ちゃんと話がしたいな。お互いまだまだ知り合ったばかりだし、探り探りだけど、俺たち波長は合うと思うんだ。客とキャストだけど、あたたかい関係でいようよ」


 白くんが困ったように微笑んだ。


 私は力なく、うなずくしかなかった。


 夕食を堪能したかしないかのうちに、私たちは会計を済ませて店を出た。あそこに長居しても二人の今日の空気感は変わらないだろうと、お互い感づいていた。


 寄り添い合って歩くうち、白くんの大きな手が私の指先を包んだ。恋人つなぎをされて、嬉しいはずなのにそこにあるのは白けた虚しさだった。私の金はもうないのだ。あとどれくらい、この人を束縛していられる?


 現実に戻っていく。


「あの、ホテル」


「え?」


「ホテルは、『極楽浄土』の本店が、その、いいです」


 たどたどしく言葉を紡ぎながら、私は彼に頼みこんだ。


「そっか。そっちの方がいいかもね」


 白くんは快く了承してくれた。


 つながれた手はギュッと握り込まれていて、離さないとばかりに強く掴まれていた。日が落ちても気温は蒸していて、汗ばむくらいだった。




   〇




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