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第二章 「幸せごっこ」3


 朝になっていた。


 目覚まし時計を止めて、家族と目を合わさずに朝食を終えた。歯磨きをして、財布とスマホ、保険証だけを鞄に突っ込んで家を出た。


 駅に着くと、本当に待ち合わせ時間ぴったりに白くんはいた。初めて会った時、顔立ちばかりに見とれて他が目に入らなかったけれど、病院へ行っても浮かないようなシンプルな服装にしてくれている。嬉しかった。


 心療内科を受診したのは初めてだった。患者がひしめき合っている中、初診受付を済ませて順番を待つ。沈黙が重苦しくないだろうかと心配した時、横からそっと白くんが耳打ちしてきた。


「園子さん、これ」


 小さな箱を差し出される。


「開けてみてください」


 白くんは優しい笑みを浮かべて言う。


 私は、知らず冷や汗を垂らしていた。


 小箱。


 昔の嫌な記憶が思い出される。


(おまえに物贈るやつなんて、いるわけねーじゃん)


 この箱の中には何があるのか。虫の死骸か、ズタボロの雑巾か、干からびたパンか。人からの好意を期待して、そのふたを開けた途端、いわれのない悪意を受けたことは一度や二度ではない。


 少なくとも私は、プレゼントに夢を抱けない。


「園子さん?」


 白くんは心配そうに私を見遣った。


 ごめんなさい、開けられない。そう言えたらよかったのに、臆病な口はうまく回らず、身体が小刻みに震え始める。


 どうしようと混乱するうち、白くんは自ら包みを外して中身を取り出した。


 あっ、と思っている間に、私の手にプレゼントが置かれる。


 差し出されたのは、薄いピンク色をした、手のひらサイズの子ブタのぬいぐるみだった。


「手乗りぬいぐるみです。ぬいぐるみって、けっこうヒーリング効果があるって聞いて。待ち合わせ前に買ってきちゃいました」


 白くんはあの日と同じ、天使のような微笑みを見せる。


「握っているだけでも、だいぶ違うと思いますよ」


 促され、素直に従った。白くんから手渡された子ブタは、柔らかい素材でできていて、触り心地がよかった。しばらく子ブタの顔を撫でたり、つついたりしながら、患者で埋まっている待合室の時間は静かに過ぎていった。


 待っている間、また、あの感覚が私を襲う。相手がつまらないと感じているんじゃないか、無言が続いて息苦しいのではないか。会話ができない私の隣に嫌気がさし始めていたらどうしよう。そういった、内臓をキリキリと絞られるような苦痛が私を侵食し始める。


 白くん、つまらなくないかな。


 私といて。


 人といる空間を、どうやって居心地のいい場所にしたらいいのかわからない。


 情けなかった。


 会話をしたくてもできない自分が。


「あの」


 蚊の鳴くような声を出した。


「白くん」


 声がかすれて馬鹿みたいだ。


「どうしたの?」


 白くんはきょとんとした顔で問いかける。


「そ、その」


「うん」


「ご、極楽浄土って、あの、具体的に、どんなお店……?」


 いや、ここで聞くべき話題じゃないだろ。それは判断できるのだが、他にどんな話を振ったらいいのか選別できないのだ、私は。


 白くんはちょっと考える風に小首をかしげた後、「スマホで会話しませんか?」と提案した。私も賛成の意を伝える。


 LINEに白くんの文章が現れた。


『極楽浄土の特徴は、他の女性向け風俗店と、だいたい同じです』


 私は彼と目を合わせ、視線で返事をする。


 白くんは次の文章を入れる。


『大まかに言って、女性向けの風俗店は、四つのタイプに分けられます。


 一つは、レンタル彼氏サービス。恋人ごっこを楽しむやつで、最も王道です。


 二つは、デリヘル。デリバリーヘルスの略で、性行為に及びますが、本番行為はNGとなっています。


 三つ。性感マッサージ。女性の身体に触れる疑似エッチで、あくまで体験という名目であり、本番行為はNG。


 四つ目は、男性全般が受けつけられない女性のための、女性同士限定のサービス。レズ風俗と呼ばれますが、利用客の女性は必ずしもレズビアンというわけではなく、友だちごっこや母娘ごっこをしたい人もいるので、名前の定義が難しいところです。


 園子さんが今利用しているのは、レンタル彼氏としての料金になりますね』


 ここまでで聞きたいことはありますか? と文章は続く。


『あの、すみません、何歳ですか?』


 また馬鹿みたいな質問をする。


『二十六歳です』


『私は二十九です』


『同世代ですね』


 ぽん、と可愛らしいスタンプが送られた。


 思わず吹き出すと、再度スタンプが来る。


『園子さん、笑ってくれましたね! 笑顔の方が素敵ですよ!』


 白くんの方を向くと、彼は本当に嬉しそうだった。


 私も、嬉しかった。


 たとえ、真意がそこになくても、優しい言葉は私を癒してくれる。


 もう一度ぎこちなく笑うと、白くんはこちらに手をのばし、私の指とつないでくれた。


 胸の奥に、あたたかい光が射しこんでくるような幸せを感じた。たぶん、これが幸せってやつだ。きっと。




 診察では、これまでの生い立ちや家族関係などを聞かれた。症状が出た時の詳しい状況や、いつ頃から抑うつ状態になったかなど、けっこうな時間を費やして質問に答えていった。


 医師から言い渡されたのは、軽度のうつ病とパニック障害という病名だった。どちらも有名な名前で、自分がそんな症状を患ったのだと実感しきれずにいた。


 診断書を会社に出すという旨で、医療費は高くついた。心中で舌打ちし、薬局で薬をもらう時も、いらぬ出費ばかりがかさむとしか思えず、心は暗かった。せっかく白くんと一緒にいるのに。


 夢中でいられる時間は一瞬。現実に引き戻される時間は永遠。


「園子さん」


「は、はい」


「差し支えなければ、病名のこと教えてくれますか? 心配なので……」


「あ、ぱ、パニック障害と、うつ病、と言われました」


「そっか……」


 白くんはこちらを慈しむように見つめる。


「きっと、治りますよ」


「あ、ありがとうございます」


「幸せに生きていきましょう」


「……はい」


 幸せって、どんな状態を指すのだろうか。


 飢える心配がないことか。社会が安定していることだろうか。私自身、幸せの指針がどこにあるのか、測りかねている。


 でも、白くんが今ここにいて、私を気遣ってくれる状態は、ありがたい。まるで柔らかな素材のベッドにいるみたいで、安心する。


 約束の時間が来て、彼にデート代を支払う。


 スマホを通して、私の口座から彼にお金が渡る。今日でいったいいくら使ったのか考えると怖かったので、見ないふりをした。


「次、いつ会えますか」


 白くんは、いたいけな少年のように微笑んで次の予定を催促する。


 ATMにされている自覚はきちんとあった。現実と夢の区別がまだはっきりしている頭にどことなくほっとしながら、


「そろそろ、会社に、行かないといけなくて」


 と告げる。


 白くんはうなずき、


「園子さんのお誘い、いつでも待ってます」


 と、あの日のホストと同じ言葉をつぶやいた。


「また会いましょう」


「う、うん」


 私たちは手をつないで、帰り道を歩いた。


 離れがたくて、でもこれ以上そばにいるには追加料金を払わなければいけなくて、そんな余裕はないから今日は白くんとここで別れるべきなのだ。


 病院が混んでいた影響で長時間待たされたけれど、時刻は夕方にはまだ早く、日の色がまばゆく地上を照らしている。


 落ちてしまいたいと、思う。


 彼に何もかもを貢いで、捧げて、私は狂人として心を崩壊させたいと、願い始めている。


 手を握る力が自然と強くなる。私が力を入れているせいだ。


 白くんは、無反応だった。


 心に隙間が生まれる。


 客とキャストだ。金の関係で私たちは成り立っているのだ。夢は夢として受け止めてしまわなければ、後々引き裂かれるのは自分なのだ。


 でも。それでも。


 本音と理性が互いに邪魔し合う。


 空っぽだと思った。


 影山明は、やはり空っぽな人間なのだと。


 五月最後の、湿気を含んだ生ぬるい風が吹いて、それが何だか気持ち悪かった。




 家へ戻って、自室に籠もり机の引き出しから通帳を引っぱり出す。


 貯金はあとどれくらいだろう。


 ざっと見たところ、今すぐ散在しなければ飢え死にということはなさそうだった。白くんとこれからずっと一緒に居続けるとして、彼にかかる金額の計算を始める。会社から逃げてきたばかりだけれど、白くんのためなら、吐こうが槍が降ろうが会社に行ける気がしてきた。


 診断書を再び確認する。これを会社に提出して、その後はどうなるのだろう。仕事量または給料を減らされるのか。そう考えると、病気と診断されたのはむしろ不都合かもしれない。いっそ隠したい。だがそんなわけにもいかない。どうすれば、白くんと過ごすためのお金をもっと貯められるだろうか。


 うまい対策が浮かばず、私はひとり唇を噛みしめた。



   ○



 三回目のデートは、私の希望する場所に行きたいということだった。


 望むデート場所といっても、いわゆる人通りが多い王道のデートスポットは気が引けるし、ただ天気のいい日に公園なんか行って、互いにのどかな時間を過ごしたり、散歩したり、そういうのんびりした関係がいいのだ。白くんに素直に伝えられたらいいのだけれど、気軽にできたら今まで苦労はしていない。結果、スマホを握りしめて百面相をする状況に陥っている。


 久しぶりに出社し、いつも通りの業務をこなす。頭の中は白くんでいっぱいだ。


 診断書を受け取った上司は、相変わらずの無表情を崩さず、私に回ってくる仕事を簡単な作業内容に変更した。私は今まで以上に透明人間として社内で振る舞うことができた。誰も私に注目しないし、気が楽だった。昔の「窓際族」って、きっとこんな感覚なのだろう。自分一人の世界に閉じこもれる快感。奇妙な安心感と心地よい孤独が、今の私にちょうどよかった。


「これ、コピーお願い。二十部」


 黙々と作業していると、同期が雑用を回してきた。今の私は責任の大きい仕事を任せてもらえるような状況ではないため、特に憤るような感情もなく、淡々と返答してコピー機に向かった。


 同期の花田はなだは優秀な女性だ。私たちの中でいちばん仕事の出来がいいし、すでに何回か昇給している。それゆえ無能な私に対する当てつけのような行為をすることもあり、嫌いではないが面倒くさい存在ではある。


 コピーを終え、なるべく彼女と目を合わせないように資料を渡す。私たちの間に会話らしい会話はない。特に仲のいい瞬間もなかったし、何より私が周りを無視しているからだ。別にそれでよかった。私は現実に何も求めていない。


 もうすぐ会議が始まる。みんなが続々と準備を始め、会議室へ入っていく。


「影山さんは来なくて大丈夫だからね。具合悪いんだもんね」


 いちいち言う必要などないのに、花田はさも親切そうな顔を浮かべて私に戦力外通告を渡す。何も言えずに固まる私を、花田は一瞥して颯爽と去っていった。


 私のそばを何人もの人間が通り過ぎていく。誰も振り返らずに。みんなそれぞれに固まって仕事の話をしながら、私のコピーした書類を持って部屋を出ていく。それは学生時代の教室にひどく似ていた。うまくしゃべれない私を、初めの頃親切心でフォローしていた人たちは、友だちを増やしに増やして、やがて私の存在を忘れ、移動教室に固まって向かう。お互いのおしゃべりに夢中で、幸せな学園生活を送れると信じていて、そのそばで石ころのように動けなくなっている人間は視界に入らない。時代が変わっても、時間が経っても、積まれるのは年齢だけで、私自身の境遇は一向に変化しない。


 気づくと、自分のデスクで事務作業をしていた。部屋には誰もいなかった。パソコンの画面に表れる機械的な数字と日本語の文章。偽りでも何でもなく、おぞましい毒素が自分の体内に充満していた。世界が憎かった。不快な気温。暗い曇り空。すべてがうっとうしい。消えてなくなれ。目の前の不愉快なもの全部。


 時計の針が休憩時刻を指す。私は即座に席を立って、部屋も会議室も突っ切って一人きりになれる場所を探した。


 資料室と書かれた部屋を見つけた。明かりは点いておらず、人気もなかった。中に入ろうと思いドアノブを回すも、鍵がかかっていて動かなかった。


 扉の前に佇み、呼吸をして神経を落ち着かせる。誰もいない場所で自分の意識のみを集中させられるのは助かった。


 しばらく経って、激しい憎悪の念はいくらか治まり、薄暗がりの廊下の、しんとした時間が心地よく感じられた。


 スマホを取り出す。『極楽浄土』のサイトにすぐに飛び、白くんの名前を探す。


 けれど彼の予約スケジュールを見て、一瞬で地獄に堕ちた。白くんの予定がほぼ一ヶ月分埋まっていたからだ。


 そうだ。彼は人気者なのだ。トップキャスト。その肩書きが重く私の胸を穿ってくる。


 白くんは私のものじゃない。


 しばらく忘れていた現実。やるせない思いが満ち、私は顔を覆った。泣きたいからではない。ただ、空しいのだ。真に空虚な気持ちになった時、人は涙すら出ない。


 休憩時間が半分ほど過ぎても、私は立ち尽くしていた。




   ○




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