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第二章 「幸せごっこ」2


 イケメンとか美形とか、見栄えのいい男を形容する言葉は数限りなくあるけれど、ここまで言葉に尽くせないほど麗しい美貌を拝見したのは初めてだった。


 目の前の天使が、ニコニコしたまま何か言っているが、彼の一言一句が何ひとつ耳に入ってこない。


 身体中から汗が吹き出てくる。胸の奥の部分がギュンッと鳴ったような、不可解な音を立てて軋んだかのように痛んだ。息をどうやってしていたのか、一瞬、本気で忘れかけた。今まで自分の人生をどう生きていたのか、急に哲学的な考えをし始める私の脳みそ。


 人の顔を印象づけるのは、瞳と眉だ。目にはすべてが宿る。その人の人格や、魂みたいな念が。そんな内容を本で読んだはずだ。


 綺麗な瞳をしていると、思った。優しそうな、慈愛の光が宿っている。


 眉。まっすぐにキリッと整っていて、男性的な凛々しさを感じさせる。


 鼻筋も、口もとも、申し分ないバランスだった。


 ごめん、世の中の男の人。私は、一目惚れをした。


 初恋だ。


 これが、初恋ってやつなんだ。


 骨抜きになるという、使いまわしの表現が、今以上に私にハマっている事態もないだろう。甘い快感が、危険信号のごとく私を高鳴らせる。お前はどこまで馬鹿なのだ、と内なる自分が自分自身を殴り飛ばしている。


 男は何で決まると思っている?


 顔だ。


 ふざけんなよお前。その風貌で言えた義理じゃないだろうが。男は心を見て判断しろよ。


 すみません、内なる自分。でもあまりにドキドキするんです。夢を見させてください、お願いします。金ならあるので。


 引き返せ。馬鹿野郎。


「名前を」


 今すぐ逃げろ影山明。二度と振り返るな。


「名前を、教えてください」


 おい近づくなよ。


「私は、私、は」


 モラルはどこに置いてきたんだ影山。


「園子さん」


「……へ?」


「園子さん、ですよね? シークレットネーム。僕は白です。初めまして。今日は一生懸命、お相手させていただきます」


 あっ、もう、駄目だ。


 そう思った時には、私の意識は暗転していた。




 息苦しい。何だこの息のしづらさは。上下左右の感覚がなくなっているみたいに、今どこにいて、何をしているのか自分でわかっていない。宙を掴むように手をのばすと、その手を誰かが握る。背中を誰かがさすっている。うずくまった私を、介抱してくれているのだと気づいた。


 本当に息ができない状態になっていた。当たり前にできていた呼吸ができなくなっている恐怖心が襲い、ますます気道が狭くなっているようだ。息を吸えば吸うほど、酸素が奪われていく感覚に身悶えした。


「大丈夫? 落ち着いて」


 背中を撫でる手つきが、くり返し私の偽名を呼ぶ。


「園子さん、落ち着いて。ゆっくり息を吸って、吐いて。大丈夫だよ」


 口元に袋が当てられていた。


 過呼吸。


 発作を起こした人を助けるシーンで、よく見るやつの、あれだ。


 私は、過呼吸になっている。


 あまりに情けなくて、寂しくて、心細かった。


「白、くん」


 息も絶え絶えに、隣の彼を呼んだ。


「園子さん」


 ソフトな甘い声が、耳に心地よかった。


「呼吸、少しずつ整ってきたから。ゆっくり息をして。焦らないで」


 言われた通りに、息を吸う。吐く。今までやってこれたことを、取り戻すように。


「そう。上手、上手」


 そばに人がいる。ありがたかった。


 今まで、誰も私のそばにいなかった。


 手のひらの温もりを久しぶりに味わった。


 涙があふれて、頬がぐしゃぐしゃに濡れて汚かった。自分を汚いと思う心をやめたかったけれど、それでも今ここにいてくれる彼の存在を尊く感じた。


 しばらくして、発作は治まり、私の呼吸は正常に戻った。


 握られた手を今さらドキドキして見つめたが、私が落ち着いた後も彼はすぐには離れず、身体に触れてくれていた。驚くほど優しく。


 そっと、見つめてみる。


「白くん」


 天使が微笑んでいる。


 とたんに恥ずかしくなって顔をそらしたが、改めて綺麗な人だと感じた。美貌を持っている人は、周りの空気を華やかにさせるのだ。天からのギフトだと思った。


「ごめんなさい」


 思わず謝った。いらぬ迷惑をかけてしまったからだ。


「どうして謝るの?」


 彼はさも疑問であるかのように問いかけた。


 私は何も言えず、再び黙りこむ。


 謝罪しかできない。人に対して。


「何でも言って。園子さん」


 ふがいない私になおも触れ続けてくれている、綺麗な男の人。


 瞬間、あたたかいなと、感じた。


 人の体温。ぬくもり。いろいろな、優しさとか、情愛とか。


 バラバラになっていた心が、少しずつ欠片を取り戻していくような感じが、した。


「さ、寂しい、です」


 本音が口から出ていた。


「誰にも、何も言えなくて。自分が、寂しいです」


 変わりたいなと、思った。


 不幸を自ら背負うような人生は、もう嫌だ。


 違う自分になりたい。


 彼は黙って聞いてくれている。


「白、くん」


 もう一度、シークレットネームを呼んだ。


「ん?」と、顔を近づけてきた彼に、再度ドギマギしてしまい口を閉じる。


 何かを察したのか、「園子さん」と彼が話しかけてくれた。


「まず、友だちになりましょう」


「……え」


 言われた「友だち」という位置づけの不思議さに、あっけに取られて天使と目線を合わせる。


 天使はいたって真剣に語り始めた。


「俺、園子さんのキャストになったので、園子さんのこと、もっと知る必要があります。何でも話してください。いっぱい楽しい話をして、友だちから始めてみませんか?」


 白くん。


 優しさも、情も、慈しみも、すべてをひっくるめた赦しの言葉だった。


 白くんは、素敵な人だ。


 何の迷いもなく、私は白くんの提案に身をゆだねた。




「今日は何もできなかったので、値引きしておきますね。次回、お待ちしております。まずはレンタル彼氏として、デートさせてください」


 そう約束を取りつけ、白くんは私を店の外から駅まで送り届けてくれた。予約時よりだいぶ差し引かれた金額を払い、私は白くんと一緒に夕方の繁華街を歩いた。


 人の目線に気が気でなかったが、他人は白くんの美貌に一瞬目を引かれるくらいで、後は素通りしていった。私はずっとうつむいていたけれど、白くんがしっかりと手を握り、私に歩幅を合わせて寄り添うように歩いてくれた。なるべく周りの目を見たくない私は、白くんの手の体温だけに集中して、その場をやり過ごした。


「今日みたいな発作は、よくあるんですか」


 白くんが話しかけた。


「い、いえ。生まれて初めて、です」


「病院、行った方がいいと思います」


「はい……」


「俺でよければ、付き添いもできますよ」


「え……」


「もちろんレンタルデートとしての料金になりますが」


 白くんは悪戯っ子みたいに目を細める。


 最初のデートとして病院というのは何だか情けないが、白くんがお客に対してとても丁寧な接待をしてくれるキャストなのが嬉しかった。


「あ、あの、じゃあ、これで。病院、行ってみるんで。ついて行って、くれますか……?」


「はい、喜んで」


 白くんの手の力が、少し強くなった。安心させるように。


 ふと泣けてきて、涙腺が緩みつつも外で涙を見せるわけにいかず、ぐっとこらえる。


 駅が見えてきた。


 二人で歩く時間は、あっという間に終わりを告げる。


 楽しいと思えるほど、時間は早く過ぎていく。


 胸がちくりと痛んだ。


「いつでもLINE送ってください」


「はい。ありがとうございます」


 店を出る前に交換しておいたIDを互いに見せ合い、私たちは別れた。


 東京へ戻っていく電車に乗る。


 改札口を通るまで、白くんは私を見送り続けてくれていた。




「病院行ってくる」


 親に言わないわけにいかなかったので、寝る間際、報告だけした。


 母親は一瞬呆けた顔をした後、


「会社どうすんの?」


 問いつめるように聞いてきた。


「休むよ」


「二日連続じゃないの」


「だって、具合悪いからさ」


「学校とは違うのよ。休んだらその分、他の人にしわ寄せが来るんだから」


 わかってるよ。そんなこと。


 子どもの頃からずっと成長していないこと。


 子どもの年齢のまま、身体だけが老けていっていること。


 母は、今でも私が仮病を使って会社から逃げようとしていると信じて疑わない。昔、私が何度も学校を不登校気味になった過去の思い出を、引きずっている。


「仮病じゃないの。本当に病気になったの」


 母親はまだ疑わしげに私を見ている。もうこれ以上話す時間などない。


「生活費も医療費も全部自分で払ってるんだから、文句ないでしょ」


 言い捨てて、私は返事を聞かずにリビングのドアを乱暴に閉めた。


 その晩、夢を見た。


 寂しくて、ひもじくて、どうしようもない無念の悪夢。


 自分の席に着いて、ただうつむいている、中学生の私。


 千円札を握りしめ、クラスメイトの女子の背中を追う、高校生の私。


『あの、お金を、あげるので、友だちに、なって、ください』


 親切そうな人に懇願したのだが、当人に、


『ごめん。ちょっと無理。そんなお金もらえない』


 はっきりと断られ、所在ない千円札だけが自分の手にくしゃくしゃに握られた、五月の上旬。


 誰かが話しかけてくれるんじゃないかと、思い続けた。


 誰か、人を放っておけないような親切な誰かが、私に声をかけ、どこかへ導いてくれるんじゃないかと。


 そんなわけがなかった。みんな、自分の時間で忙しいのだ。積極的に人に絡み、同じ好みを分け合って、相手の主張を受け入れ、自分の意見もうまい具合に差しこんで、笑いを取っていく。コミュニケーションを学んでいく。


 私に、チャンスはついに回ってこなかった。


 人と対面し、「おはよう」の後に出てくる言葉が、ないのだ。何を切り出せばいいのか考えあぐねているうちに、「あ」や「えっと」だけが舌に乗って上ずってしまい、後は珍妙な沈黙だけが残り、相手の気まずそうな表情を、下を向いて想像する。やがて周りは「会話が続かない」と悟り、あきらめ、私から離れていく。そのくり返しが続き、三年が経って、四年が過ぎ、気づけば社会人だ。


 人と話すって、何?


 なぜ、みんな私を置いていくの?


 一人きりだった。世界で。




   ○




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