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第一章 「逃げるが勝ち」1


 影山明、と書いて、最初に言われるのは「かっこいい名前ですね」だ。


 もっと正直な相手だと「男らしい名前ですね」とか「サバサバした感じでいいですね」とかいろいろなことを言ってくるけど、要するにみんなの意見は「あきらじゃなくて、あかりと読むんですか。女性だったんですか」ということである。


 生まれてこのかた、女に見られたことはない。そもそも私は綺麗になったことがない。どこにでも埋没する顔、典型的な日本人女の体型、陰気な性格、見た目を磨く努力もしない傲慢な態度。挙げればきりがないくらい、自分の負の要素を探せる自信があった。


 その日は私の二十代最後の日だった。


 一人、また一人とかつての同級生たちが売れていく。可愛い彼女をゲットして、そのままゴールインした男子たち。仕事が充実しているキャリアウーマン的な出世頭の女子たち。幸せな家庭と子どもを持った女子たち。私はもう同窓会に行けない。クラスメイトたちと会うのが怖い。今の私を見て、同情的な目を向けられるのがわかっているからだ。職がなくて、未婚で、友だちもできたことのない哀れな女。自分でそう思うのだから、他人から見た私は百倍増しに不幸を背負った人間に見えることだろう。


 最後に同級生たちに会ったのは、大学二年生。二十歳の時。その時、自信がないながらでも何とか彼らに顔向けはできていた。今はもう、誰と会うのも怖い。


 女性向け風俗を知ったのは、成り行きだった。


 本当はホストクラブに行こうとしていた。誰でもいい、誰か慰めて、と思いながら。男の手で頭を撫でてもらいたかった。男の手で。


 男に、癒されたかった。


 現実の世界では、ほとんどの男が私を無視したけれど、そういう職業に就く人たちは女性からお金をもらうサービス業だから、絶対に私のような女でも相手にしてくれると、そこにすがった。リップサービス、献身的に話を聞いてくれる姿勢、盛り上げ役を買ってくれる優しさ。金のためにこちらを気持ちよくさせてくれる彼らは、私にとって、黒服を着た天使そのものだった。


 誰にも相手にしてもらえない女の行き着く先は決まっている。風俗店だ。それか「会いに行ける」を売りにしている地下男性アイドルにハマるか。


 私は、直接的な温もりを得られる方を選んだ。金で寂しさを捨てられるなら、つぎ込みたかったのだ。


 あの日、私は二十九歳。


 スマホを片手に繁華街をうろつきながら、どうか、神様、と都合のいいお祈りをしていた。


 神様、どうか私を孤独にさせないでください、と。




   ○




 一向に増えない貯金と、出ていく一方の生活費。


 今日、会社で吐いた。何とかトイレに駆け込んだおかげで人様の前で吐瀉物をぶちまけるような醜態は晒さなかった。個室の空間で、私の嗚咽と泣き声と、胃からせり上がってくる不快感と汚物。もうどうにもならない。最近ずっとこの調子。そろそろ会社から戦力外通告をされそう。正社員という、今の時代に誰もがほしがるブランドを失くしそう。


 具合が悪くなり始めたのは、二ヶ月ほど前からだ。


 OLたちの昼食の集まりに、私だけ呼ばれなかったとか、重い荷物を運ばされている時に男の社員が「それ、持ちますよ」と、私を素通りして美人の後輩に優しく接したとか、そういう些細な怒りの沸点が、積もり積もって……なのかは、わからない。何せ理由もなく少しずつ体調が優れなくなっていったから。


 朝の挨拶と、帰りの挨拶。その言葉しか同僚たちと会話をしたことがない。そもそも人と目を合わせてしゃべれたことがない。彼らは最初戸惑ったように私に接してくれていたけれど、だんだん「触らぬ神に祟りなし」といった風に、遠慮がちに私を視界の範囲内から外し始めた。


 そのことに私は心からほっとしている。皮肉じゃない。本心から。


 幽霊になりたい、と、子どもの頃から思っていた。


 この世界に実在している人間なんかじゃなくて、もうここにいない、けれど見える人には見える、実体のない、かつては生身の人間だったもの。人の思念。そう、私は、思念体になりたいのだ。


 生きるために働くこともない、地べたに這いつくばって無様に泣くこともない、何者かに。


 口から出てくるのはすでに胃液のみだった。少し嘔吐の波が治まったところで、トイレットペーパーで口を拭いて、水を流す。しつこいくらいに流水ボタンを押して、私という汚い人間がまき散らした汚い液体を洗い流す。気が済んだところで、そろそろと個室を出る。洗面台で手を洗って、口をすすぎまくる。臭いも存在感も洗い注ぐみたいに、うがいを徹底的にした。


 人の気配がする。私を遠巻きに、不気味そうに見つめている女子たち。きっと私の顔は絶望的に醜く老け込み、げっそりとやつれているのだろう。私の周囲一メートル分の距離ができた女子トイレの空間で、彼女たちはさも親切そうに、柔らかな声を出す。


「影山さん、大丈夫?」


 私は何も言えなかった。何の返事もできず、こくりと頭だけ下に動かして、足早にトイレを去った。


 きっと彼女たちは、私の立て籠もっていた個室を当てて、やばい、伝染うつる、誰か殺虫スプレー巻いてよー、とか言っているだろう。けれど彼女たちは育ちがいいのか根が善良なのか、必ず私のそばで聞こえるようには言わないのだ。悪口は私がいなくなってから。そういったマナーができている今時の女子たちに、私は心から感心している。嫌味ではない。本心だ。


 何もする気になれなくて、けれど仕事をしないわけにもいかず、デスクに戻ろうとすると上司に呼ばれた。


「具合は?」


 絶好調です、と誰でも見抜けるような大嘘をつければ、私も買われたんだろうか。上司にいびられることもなく。


 おどおどしながら黙っていると、声が降ってきた。


「今日はもう帰れ。たっぷり寝て、休んで、また出社してこい」


 戦力外通告だ。


 心の底から軽蔑された。


 喉の奥が何かの拍子でひゅっと鳴ったような気がする。その間抜けな音も目の前の上司に聞かれた気がする。でもそれも全部私の思い込みで、誰も影山明の喉の調子など気にも留めていない、という気もする。


 返事は何て返したのか、覚えていない。




 うちの会社は万年人手不足だから、私のような役立たずでも、いなくなられるよりは手足になってくれた方がありがたいのだろう。今のところ首の皮一枚つながっている状態だ。


 電車に揺られている間がいちばん眠くなるのはなぜだろう。こんなに機械音がうるさいのに、家にいる時より深い眠りに落ちている気分だ。ゆりかごに揺られているっていうか、適度な震動が心地よいのかもしれない。


 退社するには早い時間だからだろう、車内はそれほどの混雑ではなかった。いつもより緊張せずに座席に座ることができ、ほっとすると同時に意識が薄れる。私の身体はもう年寄りなのだろうか。三十路手前の、ボロボロの精神と肉体。まだ人生の半分も生きていないなんて嘘に決まってる。きっと王子さまがやって来る、という歌が流行ったのはどれくらい前なんだろう。いつからみんな王子さまを信じなくなった? 甘い夢を見るのも許されないのは、不況の時代だから? でも、そもそも「いい時代」など、あるんだろうか。みんな時代がどうとか言うけど、本当に私より上の世代は幸せな夢を見て生きていたのか? 実は今ここにいる私こそが全部ただの夢で、私は、本当は十歳かそこらの少女で、畳の部屋で昼寝をしていて、たまたま悪い夢を見ていただけなんじゃないの? ……やめよう、余計空しくなるだけだ。さっさと目を閉じよう。今日が早く過ぎればいい。


 下を向き、目に入った自分の手元が、いつになくシワシワにたるんで乾燥しまくっているように思えてならない。私の手はこんなに不細工だったか? 


 突然襲ってくる、瞬間芸みたいな虚無感が、今日も私を冷やかす。今すぐこの車両の窓を無理やり開けて、思いきり宙に飛びこんでみなよと、悪趣味ないじりを仕掛けてくる。いやいや、それじゃ自殺じゃんと笑い返すような気力は、もう、私にはない。


 私は、老いた。三十路前で、老人になった。老婆のような二十九歳になった。


 何かで感覚をマヒさせたかった。




 再び具合が悪くなり、とっさに停車駅で降りた。


 繁華街で有名な駅だった。表通りは小綺麗なショップが建ち並んでいるけれど、裏路地は風俗のお店でひしめき合っている、不夜城そのものの街。


 どこかで休憩する気にもなれず、ただ一心に歩いていた。遊びに出かける若者、家へと急ぐ会社員、すれ違う人たちを呼び込もうとするキャッチの店員。誰もが今の私よりマシな生活を送っているように見えて、心細さがいっそう増す。風に当たったおかげで、胃の中の不快な気分はいくらか晴れたが、今度は夜の外気が私を冷やそうとするように、強い冷気を当てていく。


 歩いて、歩いて、歩いた。歩くこと自体に疲れ始めた頃、ここがどこかわからなくなった。


 方向感覚を失った。


 某駅の街なかだということは頭に入っているが、具体的に今どの距離まで進んだのか、周りに見知った店があるかどうか、判断できなくなっていた。


 私はもう、駄目なのかもしれない。


 自然な流れで、思い至った。


 そもそも、この世に生まれ落ちたのが間違いだったのかもしれなかった。


 ろくにしゃべれず、人と関われず、友だちもセックス経験もない二十九歳の私。不出来な人間を産み落とした母親は、私をどう思っていたのだろう。理想通りにならない、美しくもない、頭もよくない子どもを、親は本当に欲しいと思ったのだろうか。本当は私が生まれた瞬間にがっかりしたんじゃないだろうか。


 両脚が痛み始めた。仕事用のパンプスに覆われた指が、かかとが、悲鳴を上げている。靴擦れでもしたらしい、じんとした痛みが毒針のように皮膚を刺してくる感じがした。


 立ち止まる。


 道の真ん中で。


 誰か、私を消してほしかった。


「お客さん」


 知らない男の声がした。


「ねえ、お客さん」


 キャッチだろうか。返事を返す余力がない。疲れのせいで頭のどこかがショートしたみたいに、ぼうっとしたまま、視界に入る何もかもがうすらぼやけて見える。


 倒れたい。


 でも身体が倒れてくれない。


 意識はとっくに限界だというのに。


「おーい、ちょっと大丈夫?」


 誰が私を呼んでいるのだろう。ただの空耳だろうか。幻聴が聞こえ始めただけだろうか。もしかしたら、黄泉の国の使者が私の魂を迎えに来てくれたメッセージだったりして。


 ふっと投げやりに自嘲すると、


「お、笑った」


 驚いたような声が、すぐそばで聞こえた。


 私のはす向かいに、立っている男。


 黒服を着た、風俗の呼び込みの人間だとわかるような出で立ちだった。


 男はゆっくりと、注意深く、私に近づいてくる。


「あんた、大丈夫? 顔色やばいけど」


 大丈夫、なんていう言葉はとっくの昔に信じないようにしていた。ええ、まあ、とだけ返そうとして、またどもる。気味の悪い挙動不審な女。この人も私をそう思ったに違いない。


「お客さん、本当に具合悪そうだよ。何か、つらいんでしょ? ちょっと店来なよ。あ、今のは業務用じゃなくて、心からのお誘い。一回休んだ方がいいよ」


 男を見た。


 嘘ではなく、真剣な顔をしていた。


 本気でこちらの体調をうかがっているらしい。


 体内から、毒素か呪詛か、そんな不純物が抜け落ちたように私の心は崩れた。視界に映る景色が一瞬のうちに歪む。あ、と思った時には、涙が頬を伝っていた。


 男はそっと、私の腕を取った。


 傷ついた小さな子どもを労わるような、繊細な触れ方だった。「お茶でも飲みな」と、まるで長年の旧友のように話しかけ、そこにあったビルの地下へ続くエスカレーターまで私を連れた。




   ○

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