「父さん、何食べてるのっ!」
私はクラッカーをポリポリ噛じる白髪の老人に叫んだ。
「何って、この前3年間の定期購入をしたクラッカーじゃよ。食べれば健康になれるって訪問の兄ちゃんも、」
「ねぇやめてよ。本当にこんなの食べるだけで健康になると思ってるの?」
老人は口をモゴモゴさせながら、私の嫌みにはちっとも耳を貸そうとしない。
「わしが包みごと食べだしたら、そのときゃ止めてくれい。」
老人は2つ目のクラッカーの赤い包みをピリっと開けた。
私は父さんと呼んでいるこの老人の本当の娘ではない。娘のふりをしている、詐欺師だ。
老人が契約した様々なサービスに対してクレームを入れることで、お詫びのモノと保証金を受け取るというコンビネーションプレー。絶妙に大きすぎず小さすぎない会社を狙っては定期契約と営業マンの提案通りにオプションをたっぷり契約する。その後に娘役の私が会社に連絡して無理矢理不要な契約を説明不足なままさせられたと執拗に詰め寄る。老人のカモ役は見事なもので、いつも営業スタッフは成績を稼げるチャンスとばかりについつい訴求しすぎてしまうのだ。ターゲットに狙う中小規模の会社は大抵クレーム処理の専門はおらず、悪評が広まるのを恐れるのと、面倒ごとを少しでも早く収めるために多少色をつけた返金対応に応じてくれることが多かった。このコンビでの生活を始めてもう3年。今は"父さん"と呼ぶことにもすっかり慣れてしまっていた。
「父さん、こんなので若返ると思ってるの? さっきから何個も食べてるけど、これ何入ってるか分かったもんじゃないわよ。」
私が止めようとすると、老人は満足そうな顔でにっこり笑いながら3枚目のクラッカーをほおばった。
「若返るって言ったって、わしに元々若いころがあったかどうかなんてお前さん知っとるのかのお?」
老人は目を細めて嬉しそうに笑った。私の親切心に水を差すその言葉に私は唇をわなわな震わせる。
「まあまあ、そんなに怒るんじゃないよ。わしの健康なんてもうどうでも良いんじゃ。お前さんがピチピチでいてくれればわしも元気じゃ。」
老人のわざとらしい下手くそな機嫌とりに、悔しくも空気が少し緩む。
いつもならここから会社にクレームをつけて契約解除と保証金の請求を行なうための作戦を立てる手はずだったが、今日はどこか様子が違った。老人はのらりくらりと話題をすり替え、なかなか本題に入ろうとしない。時折見せる不自然な笑顔は私の心の中に少しの違和感を生んだ。
「ねえどうしたの。何か思ってることがあるならはっきり言ってよ。」
「思うことかのお。」
「何よ。」
「んー、お前さん最近また綺麗になったのお、ああ令和じゃこういうのもセクハラになるんじゃっけ。」
もうやってらんないと私は席を外そうとした。ガタッと立ち上がった私の背中に老人はポツリと声を投げかける。
「この会社はお前さんが思うより長くは持たん。いろいろやり合って、返金額が決まる頃には潰れてしまうわい。」
老人の言葉には虚を突かれたが、私はそのまま振り返らなかった。相手の会社の規模感や業績、代表取締役の経歴まで全てが私の脳内にびっちり入っている。老人の言葉通りすぐに潰れるような程度の体力の会社ではないと私は踏んでいたからだ。
だが老人の言う通り、物事は私のイメージしたのとは違う方向へ転がっていく。実は今回、契約していた会社は予想以上に他の顧客たちからも苦情が一気に寄せられた。また追い打ちをかけるように多額の粉飾決算も明るみに出たことで、あっという間に廃業に追い込まれてしまった。
「これじゃ取り立てる相手がいないじゃない…… 」
粉飾決算が計算外だったとしても、悪評の数も事前に把握していた数よりずっと多く、行政の働きかけも想定していたよりだいぶ早かった。がっくり肩を落とす私に老人はクラッカーの赤い包みを渡してきた。
「あのクラッカーの会社の代表を知っておるか?」
「あの女社長のこと? もちろんある程度は調べついてるけど。」
「あれはわしの娘じゃ。」
「え、」
「これはわしの娘が作った会社のクラッカーなんじゃ。」
私の脳天からサーっと血の気が引いていく。老人の話す日本語は分かっても意味が理解できない。口を開けても渇いた口内からは何の言葉も出なかった。
「昔から口だけは達者でのう。わしが1番騙されてきたからよく分かるんじゃ。ありゃ役所に男を作っていたのが裏目に出たのう。別れた後にどうなるんかっていう想像力が足らん。」
老人はつーっとお茶をすすって短くため息をついた。
「実の娘からはよくわからんニセモノのクラッカーを売りつけられたが、偽りの娘のお前はわしの健康を思って食べるのを引き止めてくれた。」
「だって、本当に、何が入ってるか何も信じられなかったし、」
「お前の本当の狙いが何だったとしても、わしにはそんな性根のやさしいお前が本当にわしの娘のように見えるときが、いや、そう思いたいときがあるんじゃ。」
老人のあたたかくも真っ直ぐな眼差しが、私のパリパリになった心にチクリと刺さった。
老人の娘の話は少しだけ前に話を聞いたことがあった。老人に会いに来るときは金を欲しいときだけ、とこぼされた愚痴。親に金銭的な援助を頼める環境にない私は少し羨ましい気持ちでその愚痴を聞いていた。私の親はパチンコに依存しており、あるとき金欲しさに私の下宿先のドアを破壊して部屋に侵入していたところを隣人に見つかって逮捕。それから完全に縁を切った。噂を恐れ、外に出る気にもならず、私は脳内で何度も何度も親をぐちゃぐちゃに踏み潰す日々を繰り返してきた。
「わしは後悔しておるのじゃよ。男親があれこれ口を出すのはカッコ悪かろうと思って、娘が金を欲しがったときにしっかり理由も聞いてやらんかった。今思えば娘にもう少し別の寄り添い方をしてやれば、こうはならんかったじゃないかと。」
老人は遠い目で中身のないクラッカーの包装紙を眺めた。この老人が若い父親だったときはどんなだったのだろう、今でも鼻筋はスッと通っており、多少なりともモテたはずだ。
「ちなみにこのクラッカーは食べても大丈夫なもんじゃよ、業務用のスーパーで買ったやつをそれっぽい包みに詰め替えただけじゃ。」
私は老人と横にならんで座ると一緒にお茶を飲んだ。初めて噛じるクラッカーはざらざらと口内の水分を奪っていく。気づけば私の目から水滴がはらりとこぼれ、私の水分はさらに奪われた。気づけばこれまで誰にも言えずにひとりで抱えていた悔しさを全部ぶちまけていた。親から受けた暴力、食べられるものを探す日々、寄ってくる身体目当ての男たち。全ての話を老人は、それこそ"父親"としてどっしりと受け止めてくれた。
「…… 私はとにかく生き抜かなきゃで、いろんなコトをしてきたし、自分が食べていけたらそれで良いってだけ思ってた。」
老人は何度も頷きながら私の話を一度も遮ることなくひたすら聞いてくれた。この人が父親だったら私は今頃どんな過ごし方をしていただろう。きっとこのまま消えてしまえたら、と考えた日は今までより少なかったはずだ。
「けど今、はじめて人に、父さんに美味しいものを食べさせたいって思った。」
「ほお、それは嬉しいのお。」
老人は満足そうに目を細めて自らの頬をポリポリと撫でた。この人が好きな食べ物はなんだろう。3年も一緒にいたはずなのにそんなことすら何も知らなかったことに気づく。
「それじゃ鰻でも連れてってもらうかのお。」
「鰻が好きなのね、わかった、ここら辺で1番美味しい店探しとくから。」
「それなら大丈夫じゃ、わしが良い店を知っておるから。」
「あら、そうなの?」
「わしの娘が鰻屋を営んでおる。ほら、聞いたことないか? 最近テレビとかにも出とったふわっふわと評判の店なんじゃが。」
「む、娘?ひとりだけじゃなかったのね。」
「いやわしの娘はひとりだけじゃよ。」
「え?」
「ん、ああ、クラッカーの女社長の話な、アレは嘘じゃ。」
「なにそれっ、」
外ではちゅんちゅんと雀が呑気に鳴く。老人の高らかな笑い声がそののどかさを破った。
「う、そ、意味分かるかのう?」
「はあ、うざいんですけど。」
「詐欺師のくせに綺麗に騙されよったな。」
目を合わせると雀が一斉に飛び立つほどの大声で2人は笑った。
これからも私は父と生きていく。
食べていくために。
父に美味しいものを食べさせるために。
このときの私たちはまだ、一杯食らわせられたときの味を知らなかった。