「クッ……こ、のッ」
学園の一角を呑み込む余波の衝撃に足を踏み締め、両手を交差して耐え凌ぐヴィルヘルム。
寒波は真冬の深夜に裸で追い出されるにも等しい勢いで体温を急速に奪い去り、歯の隙間から零れる吐息に熱を乗せる。
やがてそれも収まると、彼の眼前に姿を見せたのは異質な光景であった。
魔法学園というものは若気の至りで魔法を行使されても大丈夫なように、材質の一部に暗黒物質を採用して魔力の伝導を妨げていると聞く。故に多少外皮が剥がれたとしても途中で魔法が遮られ、望むような成果が得られないようになっていると。
だが、フローズの振るった氷狼は暗黒物質など知らぬとばかりに学園の一角を倒壊させ、自らの毛並を天へ逆立てていた。
「これは流石に決着……ですよね?」
先の出来事もあって不審は拭えないものの、ヴィルヘルムは氷狼の毛並を伝う形で下を目指す。
毛並の中には、倒壊して原形を無くす最中の学園の残骸や哨戒していた簡易
「ん?」
途中、敷地で揺らめく人影を認めると、慎重さをそのままに下りるペースを気持ち早めた。
流石に騒ぎ過ぎたか。野次馬第一号とも言える誰かが現場へ接近していた。
「これは、急いだ方がいいですね……フローズ!」
下へ呼びかけると、小さな声で反応が返ってくる。少なくとも彼女も意識を失う、という事態が回避できたのならば話は早い。
何せヴィルヘルムだけでは、手を下すことは叶わないのだから。
地に足をつけると、彼は漸くお目当ての存在と再会を果たす。
「ヴィル様……」
一人は氷に背を預け、腰を下ろしたフローズ。
魔力の消耗が著しいのか。主を眼前に捉えておきながら、起き上がる素振りすら見せずに顔だけを上げている。
ヴィルヘルムが労うべく頭に手を置いて軽く撫でると、少女は疲弊した表情を一変させて笑顔を形成する。頭に伝わる熱を全身に伝播させるが如く、頬を緩ませて。
フローズの笑顔を確認すると、少年は頭から手を離して二人目の存在と顔を合わせる。
「僕ら、いや……フローズ達の勝ちですね、グンタラ・メロヴィング?」
「クソ、ガキ……共がッ」
胸元辺りまでを狼の顎に捧げ、地面に叩きつけられた男はヴィルヘルムの姿を認めると怒気を乗せた言葉を送った。が、詠唱の一つも伴わないただの言葉の羅列など、先程までの魔法戦と比べるべくもない無力さを滲ませる。
事実、彼の腕から琥珀の幾何学模様は失われ、今は光を灯すことすらもない。
惨めな姿に喉を鳴らし、少年は身動きの取れないグンタラの胸元をまさぐった。
「貴様、何のつもりだッ……!」
「何もこれも……さっきの雷だかなんだかで、くすねた分はお釈迦になったんですよね。っと、これこれ」
手応えを感じたヴィルヘルムが引き抜いた手には、琥珀の液体を含んだ一本の注射器。
自らの生涯を賭けた改良型リンクネットを奪われ、グンタラは顔を大きく歪ませた。
「返せ、それを返せッ!」
「ご心配なく、すぐに返しますよ」
実験結果と共に。
グンタラの反応から贋作ではないと確信を深めると、ヴィルヘルムは躊躇いなく針を首筋へと打ち込んだ。
途端、身体の内側から血管の一つ一つが炎上したかのような熱を感じ、少年は目を見開く。先程まで身体を蝕んでいた倦怠感など跡形もなく吹き飛び、天に向かって叫びたくなる衝動に駆られる。
慌てて視線を腕に注げば、悍ましいまでの輝きを放つ幾何学模様の色は琥珀。
「これが、他人の回路を間借りする感覚ですか。素晴らしい……!」
「ふざ、けるな……それは私の……!」
「今まで生徒や首都の魔法使を実験台にしていたのでしょう。だったら次は貴方が実験台になるべき。そうは思いませんか?」
その方がバランスが取れると。
少年が向けた掌には、小さく炎熱が渦巻いていた。
視界を焼く光景に目を逸らすこともできず、身動きの取れない男はただ自身へ注がれた熱を凝視する。
「僕の家は、炎を得意とする者が多いらしいんですよ。だからヴァレトなんて名乗っているんですかね。どう思いますか、理事長は?」
親しげに話しかけてみても、相手は聞くに絶えない罵詈雑言を喚き散らすばかり。
事実を認めることもせず、実験台として踏み潰してきた誰かや自ら殺めた妻、自身を慕うグズルトへの謝罪の一つも零さない。
嘆息を一つ吐き、幸運を逃すとヴィルヘルムは一つの詠唱を言祝いだ。
「──焼きつけ燃え尽き焦土を織り成せ。
其は群れ為す炎熱の一団──
……確か、こんな感じでしたよね。火炎飛弾はッ……?!」
炎熱が渦巻き、グンタラへと襲いかかる刹那。
ヴィルヘルムの体内で吐き気すら伴う強烈な違和感が暴れ狂う。
魔力の間借りという普通ならばまずあり得ない体験から来る感覚、ではない。むしろ慣れ親しんだ、諦観と共に受け入れざるを得なくなった感覚に酷似していて。
炎熱に呑み込まれた男は悲鳴の一つも上げず、むしろ表情に困惑を露わにした。
「何のつもりだ。
「回、復……だとッ?!」
信じられない感覚に震える指を、ヴィルヘルムは殺意すら覗かせて凝視する。
他者の回路を利用するリンクネットを用いれば、不傷の呪いを無視して攻撃を仕掛けることが可能。ヴィルヘルムの推測は、行使した魔法の効果を包み込んで塗り潰す、普段の魔力が妨げた。
叶うのは魔法の行使と表面的な影響まで、実際の挙動は普段と何も変わりはしない。
認められない結末に歯噛みし、獣の如き唸り声を漏らす。指は頭へ突き立てられ、濡烏の髪に朱の染料を塗装した。
「ざっけんなよ、クソ神がァッ!!!」
天を突く遠吠えが轟き、周囲に残響を伴わせる。
制御し切れない激情に地団駄を踏み、見開かれた眼球は充血の亀裂を示す。
「今回のは全部意味なかったってかッ。時間の無駄だってのか、クソがッ?!」
子供染みた癇癪は徒労に終わった出来事に固執し、無為ではなかったと証明するための何かを模索する。だが、頭に血が上った状態ではそれも叶わず。
故にヴィルヘルムを鎮めたのは、背後からの抱擁であった。
「あ……?!」
「私は……ヴィル様と一緒なだけで有意義、です……それにこ、こ、告白まで……して貰えましたし……それが、結果じゃ駄目、ですか……?」
疲労からか、フローズの言葉はじれったさすら覚える程に間が置かれていた。
先程まで氷を手足の如くに操り、吹雪を従えていたにも関わらず。疲弊した肉体は呼気にすら疲労を感じさせるにも関わらず。
心臓の高鳴りが背中を叩くまでに密着したフローズの体温に、暖かさを覚えた。
天を貫かんばかりに湧き上がる怒気が静まり、髪を濡らす朱が勢いを無くす。力なく下げられた両手の指には血が滴り、地面へと吸い込まれる。
一滴、二滴、三滴。
怒りが沈静化したヴィルヘルムは、語句を選ぶために時間をかけて口を開く。
「それは……フローズに色々、いや……告白したのは、確かに大きな出来事でしたね」
「です、そうです……!」
「そう思えば、少しは有意義な結果とも言えますかね」
ヴィルヘルムは口角を吊り上げ、笑みを形成する。
浮かべた表情に諦観の色が混じっていたのは事実である。が、それでもフローズの体温が無意味ではなかったと声にならずとも力強く主張している。
故に足りない分を人差し指で強引に吊り上げると、少年は笑顔で眼前の男を見下ろした。
「見下すな、ガキが……!」
「ま、気持ちは分かりますが、せっかくなので見といて下さいよ。娘の代わりに僕の笑顔でも。
人生最期の光景なんですから」
何の話だ。
グンタラが問いかけるよりも早く、ヴィルヘルムの脇から氷刃が突き立てられる。
切先が男の胸元へ突き刺さり、衣服に朱の染みを広げた。徐々に侵略する朱は急速に男から意識を刈り取り、瞳に宿る光も薄く濁らせる。
何かを口にしようと唇を上下させるも、そこに意味が宿るよりも早くヴィルヘルムは手を添えて音を妨げた。
「ッ……?」
「駄目ですよ。貴方は娘思いの父親として死ぬんですよ……フローズ」
「何ですか?」
呼びかけに応じて答える少女へ、ヴィルヘルムは若干の申し訳なさを滲ませて口を開いた。
「お疲れのところ悪いんですが、もう少しだけ頑張ってくれませんか?」