だが、実の娘に父親を推測させる分には不足ない。
始めて全うに魔法を行使したという高揚すら掻き消す衝撃が、グズルトの全身に襲いかかる。何故父の名を呟いたのかという困惑にも似た衝撃が、呼気を徐々に乱していった。
知らず、倒れたフェーデへと駆け寄ると背中を激しくさすった。魔法行使に賭けてまで助けたかったはずのヴィルヘルムさえも置き去りにして。
「なんでお父さんの名前が……先生、起きて先生ッ。お父さんがどうしたのッ。ねぇ?!」
エントランスルームに響き渡る絶叫が、物の焼ける音を背景にした闇に吸い込まれる。よりによってフェーデ自身が本日の警備を担当していたが故に、現在学園内に残っている人物は周囲に揃っていた。
故に彼女の声に応じて急行する者はどこにもおらず、無為に闇へ餌を提供するばかり。
「先生ッ、ねぇ先生ッ?!」
「……グズルトさん。ひとまず、そいつを保険医にでも……見せた方がいいかと」
背後からかけられた声に振り返ると、そこには両手で上半身を支えて座り込むヴィルヘルムの姿。
余程憔悴しているのか。小刻みに呼吸を繰り返し、漆黒の瞳は開かれているのかも曖昧な程に目蓋を下ろす。緊張の糸が切れて決壊したように流れる汗を拭う余地すらないのか、タイルには次々と黒い染みが形成されていった。
彼の助けを借りる訳にはいかない。
グズルトは自然と一つの結論へと達する。
「わ、分かった……でも、先にヴィル君を……」
「だ、大丈夫です……少し休んだら、寮に、帰りますんで……そっちは、放置できない、でしょうし……」
施しを気持ちだけ受け取り、ヴィルヘルムは顎で指示を出そうとする。が、実際には痙攣と疑う程度の動きしか見せず、彼女が動きから意図を汲み取れたかは分からない。
それでも意図自体は受け取り、グズルトは苦労してフェーデを背負うと揺れる足取りで昇降口を目指した。
「気をつけて、帰ってね。ヴィル君……!」
「えぇ、分かってますよ」
校舎から出る直前、振り返ったグズルトへ微笑みかけ、ヴィルヘルムは身体を横にした。
普段から生徒を出迎えていたシャンデリアを落下させた都合上、天井には主を失った鎖だけがぶら下がっている。風も中々吹き抜けぬ室内では、身動ぎの一つも取れはしない。
ひとまず呼吸が整い、ヴィルヘルムは声を上げた。
「フローズ」
呼びかけに応じたのは、柱の一角。
最初は闇夜の中でも存在感を残す絹織物の如き長い白髪。次いで左右で異なる紫の瞳に右側に火傷痕を残す美醜の揃った顔立ち。そして魔法科所属の青の制服にロングスカート。
どこかバツの悪い表情を浮かべた少女は、恐怖に震える足で慎重にヴィルヘルムへと向かう。一挙手一投足で彼に嫌われるのではないか、心臓を見えざる手に鷲掴みにされたかのような恐れを内に秘めて。
「ヴィ、ヴィル様……ごめん、なさい……」
横になって天を見上げる少年を見下ろし、少女は唇を震わせて謝罪を紡ぐ。
「何を謝ってるんです?」
「誰かに傷つけられたのには、気づいてたのに……わ、わた、私、ちょうど見回りの寮長が来てて……それで……!」
初動が遅れ、現場に到着した頃には全てが終了していた。
頬に一筋の涙を垂らし、少女は努めて穏やかに問うた少年へ理由を告げる。
尤も、彼は別に叱責の意図はなかったために苦笑を漏らして受け流しているが。
「ハハ……見回りって、それじゃ僕も明日の言い訳を考えないと、ですね」
「嘘じゃないんです、本当はすぐにでも……!」
「あー、いや。皮肉とかそういうのじゃなくですね……ったく、言語化ってのは本当に必要ですね」
宥めるヴィルヘルムの弁に、フローズは首を傾げた。
左手で汗の滴る額を不快感ごと拭い取ると、少年は反対の手で少女を手招きする。
起き上がるのに手助けが必要なのか。フローズなりに解釈するとしゃがみ、ヴィルヘルムへ腕を伸ばす。
「知ってますかフローズ」
口を開きつつ、伸ばされた腕を掴む。
正確には、手首を。
「へ?」
フローズが呆けた顔をするのも束の間。
疲弊した様子からは想像もつかぬ膂力で引っ張られると、体勢が崩れてヴィルヘルムへと急速に接近する。
咄嗟に左手がタイルへと伸ばされ、頭をぶつける事態こそ回避。
しかし流石に一言何かを言おうとするも、それを遮ってヴィルヘルムの腕が彼女の背後へと回され。
「生命の危機に瀕するとこう、色々興奮するんですよ」
「……ッ……??!?!?!!?」
唇と唇が触れ合う。
単なる偶発的な条件が組み合わさった事故の接触に過ぎない、ともすれば数にカウントしないものも多いだろうそれで、フローズの思考は衝撃に埋め尽くされる。瞬時に青白い肌の顔が紅葉を迎え、集合した血で火傷しそうな程の熱が発生する。
焦点も定まらずに見開かれた両の目は、不意に真摯な眼差しを注ぐヴィルヘルムの漆黒を覗いてしまった。
一人の男として、フローズ・シルヴェイドを求めている。
本能がそう理解してしまったが故に。
「ッ?!」
弾けるように身体を仰け反らせ、フローズはスカートを引きずって距離を取った。
遅れて上体を起こしたヴィルヘルムは身を翻し、先程まで触れ合っていた唇へ手を伸ばす少女の顔を覗く。
「え、は……ぁう、うえ?」
「ははは、動揺する姿も可愛いですね。フローズ」
普段通り微笑む顔が、唇を重ねた直後のフローズには普段よりも増して魅力的に映っている。星々の煌めきに酷似した光が周囲に散らばり、輝きの主が如き様相は少女のフィルターを通過しているからこそか、彼女自身に判別がつかない。
ただ、理由を問おうという気には不思議とならなかった。
元々奴隷と主人の関係。これまで求められなかっただけで、必要とあらば身体を明け渡す覚悟さえできていたのだ。そのつもりだったのだ。先の言葉が真かそれとも口実なのかに然したる興味も抱かない。抱くべきではない。
先程とは全く異なる震えが、ヴィルヘルムの紡ぐ次の言葉を待ち侘びた。
「色々と大事なことを伝える必要性を確認しましたので、伝えようって訳です。
たとえクラスや通う学科が違っても、僕は君一筋のつもりです。浮気や余所見なんてする訳がない……大好きです」
流石に羞恥心も皆無ではないか、最後の方はやや聞き取り辛くはあったものの、ことフローズに限定すれば聞き逃す訳がない。
直球の告白に酸素を求める金魚よろしく口を開閉させる少女へ、少年はなおも言葉を続ける。
先程までよりも幾分かトーンを下げて。
「君がどう受け取るかは不明ですが……」
次の音を告げる余地はない。
フローズが飛びつき、勢いを支えられる訳もないヴィルヘルムが押し倒されたために。
「つッ!」
後頭部に走る痛痒に奥歯を噛み締め、しかし全身を包む暖かい感触に表情が緩やかに柔和さを取り戻す。
「はい、はい……私だって大好きですッ、ヴィル様ッ。私を買ってくれたあの日からずっと、ずっと大好きでした!」
「それは、良かったです……」
背中へ手を回される感覚に両手で返すと暫しの間、二人は硬い抱擁を交わし合った。
時にして数秒か、もしくは数分。
両手の拘束を緩め、ヴィルヘルムは紫の瞳と正対する。
「それでは、他人の隠し事を暴きに行きましょう」
フローズからの返事は、待つまでもなかった。