「……」
適度な温水が頭から降り注ぎ、フローズの肌を刺激する。水気に濡れた青白い肌の表面を球状の水滴が滑り、地面へと落下した。
項垂れた様子で額を正面の姿見へ当てて少女は微動だにせず、捻ったシャワーが赴くままに温水を垂れ流す。視線が刺さる先では、身体から零れた温水がフローリングを伝って排水口へと流れていた。
ゲイルスコグル魔法学園の学生寮に存在する男女別のシャワールーム。普段ならもっと多数の生徒が利用しているが、今は夕食に程近い時間帯故に利用者も疎らであった。
フローズが使用しているのは端に位置するスペース。ヴィルヘルムから受けた賞賛である程度は気にしなくなっているとはいえ、女性らしさに乏しい骨格の浮かび上がった容姿を隠すには端のスペースは都合が良かった。
右隣ではグズルトがシャワーを利用し、排水口に温水や泡を流している。上機嫌に鼻歌を歌っている辺り、随分と気分がいい様子が伝わってきた。
「人の気も知らないで……」
呪詛を呟き、横目で隣室と隔てる壁を睨む。普段から剥き出しの濁った紫は白髪に一部が隠れ、目を細めて睨んでいるようにも見えた。
グズルトと出会ってから、ヴィルヘルムが自分と関わる時間が短くなった。ヴィルヘルムの関心が別の女性へと注がれるようになった。ヅヨイとの騒動では彼女も恩人らしいが、所詮は状況の改善に何も出来なかった少女。彼の撃破に一役買った自分が蔑ろにされる現状に、決して納得はしていない。
代替の利く路傍の石如きが、ヴィルヘルムのためならば喜んで両手を朱に染める覚悟のある自分を差し置いて意識を注がれている。
心中を染め上げる漆黒の感情が荒れ狂い、フローズの目に嫉妬の炎を滾らせた。
「グズルトのせいで、グズルトのせいで、グズルトさえいなければ……」
繰り返される呪詛の念が最悪と結びつく。
「──氷獄よ」
詠唱の声はシャワーの音に紛れ、隣で呑気にしているであろうグズルトは気づかない。
周囲から音を立てて熱が失われ、過度な温度変化が水蒸気を湧き立たせる。二次被害としてフローズ自身の身体にも皮膜の如き氷が張りつくもの、取り繕う必要などどこにもない。
「アレ、シャワーの調子が悪くなったような……?」
急激な気温変化があくまでシャワーに起因していると誤解し、壁の向こうでグズルトは小首を傾げる。歴戦の戦士ならばいざ知らず、たかが一学生に隣室で魔法が行使されている可能性を考慮しろとは酷な話。
故に奇跡はここに成り、後は血を以って回路を開けるのみ。
無造作に頭を振り被り、そして鈍い音をシャワールームに響かせる。
「私は、何を……?」
呆然とした呟きは、魔法の詠唱ではなく一人の少女としての疑問。
額から流れる血が亀裂の走った姿見を経由し、排水口へと吸い込まれた。魔力漏れによる冷気と流血によって彼女自身を突き動かす熱が奪われ、思考に正気が混ざる。
「何今の音、大丈夫ッ。フローズさん?」
「……」
突然の鈍い音に心配するグズルトの声も無視して、フローズは正面を見つめる。
亀裂の走った姿見に乱反射した獣。右目を中心に焼き爛れ、左には内心を反映したかの如く嫉妬で醜く炙られた獣の姿を。
自らに害成すからと学友を排除する存在が、どうして好かれようか。
単なる一奴隷如きが、どうして貴族と結ばれることが叶おうか。
多少いい思いをしたからと思い上がり、更に先を望むなど烏滸がましいことこの上ない。まして結ばれるなど、夢想すらも甚だしい。
額から流れる熱い血が醜い嫉妬心諸共に、恋焦がれる思いまでも洗い流す。
「ごめんなさい、ヴィル様……!」
理事長が移動に用いる馬車というだけあり、座り心地は実家のものと比較してなお良質。もしも自らが益に預かることを前提に於かなければ、学費の無駄遣いと前世の調子で口にしていたことは想像に難くない程に。
黒を基調としたシックな雰囲気の馬車内では、ヴィルヘルムとグンタラの二人が向かい合っていた。
年齢差は著しいものの、少年側に緊張の色はない。
「グズルトさんは何故、この学園を目指したんです?」
ヴィルヘルムは疑問を零す。
数日間訓練に付き合い、彼女には魔法を扱う才能が欠如していることは明白であった。
幸いにも支援魔法科ならば、実技方面の要求水準は低い。極論だが、的当て試験に合格した段階から成長せずとも卒業まで持っていくことも不可能ではないのだ。
故に無理して実技を習熟する必要はない。むしろ落第寸前ならば、その時間を勉学の方面に注ぐのが合理的でさえある。
「はっきり言って座学に時間を費やした方が有意義だと、訓練に付き合った身としては進言しますね。魔法の理論構築や技術者など、別の方面で立身した著名人は多数いますし」
「……」
「理事長のコネが虚偽の噂だとしても、人の口に戸は立てられない。それに嘘と切り捨てるにはストーリーの出来が良過ぎる」
肩を竦めて冗談めかして語るが、ヴィルヘルムなりの本心であった。
退学を最悪と定義づけた上での助言だが。
グンタラは蓄えた白髭を弄り、眼前の少年と向き合う。感情面の抜け落ちた、恐ろしく冷ややかな忠告をくれた娘の級友と。
「……グズルトの母親は、八年前に起きた強盗事件に巻き込まれてな」
口に出したのは、食事の肴としてはあまりにも不味い話。
「彼女はその際に犯人の右腕を目撃したらしくてね。もしもあの時、自分に力があれば母を救えたんじゃないか、と考えて仕方ないんだろう……」
「だから自分で魔法を使うことに固執している、と」
どこか呆れた様子で口を開くヴィルヘルムの言に首肯し、グンタラは話を続ける。
「アレで思い詰める所があるからの。父としては学園生活を楽しんでいるのか心配だったのだが、最近は良く笑うようになってな。君に習ってると、前よりも希望が見えているとね」
「ハハハ、それは何よりです。恩返しの甲斐もあります」
それは闇で目が瞑れただけではないのか。
内心で抱いた感想を内に収め、ヴィルヘルムは愛想笑いで返す。
あくまで図書館で借りた本を読む合間、という前提に加えて、実際に魔法を行使して現物を見せることも叶わない身。講師としては二流以下という自覚はヴィルヘルム自身も抱いている。
故に隙間時間があれば、フローズにも積極的に手伝ってもらっているのだ。
肝心のフローズは恐ろしくグズルトに当たりが強いが。それでも手伝いそのものを拒否することはない分、益体もない訓練には持って来いの人材である。
「ごめんお父さん、遅くなった」
「おやおや、ようやくかいグズルト」
馬車の扉が開き、外より赤毛と白髪の少女が顔を見せる。
開口一番に謝罪を告げる少女に、グンタラ達は注視した。厳密には彼女の背で無表情を貫く少女に対して。
「ちょっ、どうしたんですフローズ?!」
「何も、ないです……」
バツの悪い表情を浮かべて顔を逸らすフローズは頭に包帯を巻き、どこで購入したのかも分からない黒のドレスを着用している。因みに一汗流したグズルトや先んじて馬車で待機していたヴィルヘルムは制服を着用し、グンタラにしても普段と大差ない衣服を着こなしていた。
三人と比べ、黒一色の長手袋や華を連想させる上下一体型のドレス。踝辺りまで覆い隠すロングスカートは、さながら社交界のダンスパーティーにでも赴くようであり、顔に刻まれた生々しい火傷痕とは対照的な印象を受ける。
明らかに気合が入っている服と、顔を合わせることにも抵抗のありそうな顔。
相反する要素にヴィルヘルムは頭に疑問符を浮かべる。
「何もないってことはないでしょッ。自然に頭の傷が開きますかいッ?」
「それがね、フローズさんはシャワーでこけたらしくて……包帯巻いてたら遅くなったんだ」
「それはそれは大変だったな……」
「別に、何もなかったです……」
一瞬でも殺意を注いだ相手に介抱されるなどフローズとしては筆舌に尽くし難いものがあるのだが、他者へ公言するにはあまりにも憚られる。
故に彼女は何もなかったと繰り返し、馬車内部に於けるヴィルヘルムの追及を躱し続けた。