グズルトがヴィルヘルムと放課後に特訓するようになって数日。
白髪を蓄えた老境に差しかかった男性が体育館へ続く廊下を歩く。
肉が落ちて年老いた肌は内に潜む骨や血管を浮かび上がらせ、黒縁の老眼鏡による支援無くして遠方を覗くことも叶わない。後退した前髪や購入時よりも通す穴が前進したベルトなど、身体の各所に衰えが伺えた。
それでも腰を曲げることも杖の補助もなく大股を開くのは、彼なりの意地か。
ゲイルスコグル魔法学園理事長、グンタラ・メロヴィングは窓際を歩き、視線を運動場へと注ぐ。
眼鏡の先では魔法の練習を繰り返す生徒が散見された。青の制服を夕焼けに染め、己の技術を高めるべく研鑽を重ねる。
流れる汗の一滴にまで美しさを見出したのは彼自身、過去を懐かしむ哀愁の念が残っているが故か。
「……」
知らず、足を止めた瞳に羨望の色が混じる。
老い痩せ細った肉体でなければ、過去に事故が起きねば。幾つものもしもが脳内を駆け巡り、握り締めた拳が爪に食い込む。
「おっと、いけないいけない」
微かに走った鋭い痛みで我に帰り、グンタラは体育館への移動を再開する。
日頃から足腰を鍛えている影響か。六五歳という高齢にも関わらず、グンタラの動きに疲労の色はない。
体育館の扉を引き、内部へ足を踏み入れる。
何も暇つぶしで学園を探索している訳でも、散歩のコースに指定している訳でもない。
「其は群れ為す炎熱の一団。火炎飛弾──」
快活な声で告げられた詠唱が体育館に響き渡る。しかして本来は付随するはずの成果は訪れず。
ヅヨイのように渦巻く焔ではなく、僅かな火の粉が指先で爆ぜるのみ。吹けば消える程度の熱量さえも数秒と持ち応えず、すぐに霧散し形を無くす。
「調子はどうだい、グズルト?」
「お父さん!」
グンタラは魔法行使に失敗して大袈裟に項垂れる少女へ声をかけると、呼びかけられた側は赤髪を揺らして駆け寄った。周囲に立つ赤と青の制服を纏った一組の男女を置いて。
彼の娘であるグズルト・メロヴィングが快活な笑みを浮かべて口にしていたのだ。最近、クラスメイトと体育館で魔法の訓練をしている、と。
「どうしたの、何も言わずに来るなんて」
「ははは。あんな上機嫌に語るグズルトは久しぶりだったからね、父としては誰が手伝ってくれてるのか気になったのさ」
「これはこれは、ご足労お疲れ様です理事長様」
グンタラへと近づき挨拶したのは、赤の制服を身に纏い濡烏の髪をした少年。彼の動きに追随し、背後に立つ青い制服に足首まで覆うロングスカートを組み合わせた少女も後を追った。
彼らの顔を一瞥すると男性は髭を弄り、数秒の間を置いて思い出したように口を開く。
「おぉ、君達は……そうだ、シルヴィヴァレト君にシルヴェイド君」
「ッ……理事長に覚えていただけてるとは、光栄です」
「……」
「ははは。学園名簿には毎年目を通すからね、当然生徒の名前は自然と頭に入る」
予想外の出来事に面食らいつつ、ヴィルヘルムは頭を下げた。一方で付き添いのフローズは僅かに奥歯を噛むと、名前を口にされたのが不快と訴えるべく無言でグンタラの胸元を睨む。
流石にそれは不味いとヴィルヘルムが片肘で小突くと、あくまで少年に詫びるように口を開いた。
「……フローズです」
「すみません、理事長。ちょっとフローズは複雑な事情を抱えてまして」
止むを得ず、代わりに頭を下げた少年へ鷹揚な声で告げるグンタラは掌を向けた。
「気にすることじゃない。誰だって抱えていることの一つや二つはあるさ。それとさっきは失敬、フローズ君」
「……」
呼びかけに対し、フローズは射殺さんばかりの凝視で返した。
もうどうしようもないな、とヴィルヘルムは嘆息すると伏し目がちにグンタラを見つめる。無意識ながら、助けを求める目つきをしていたのかもしれない。
だが、流石の理事長も初対面の男子生徒と無言で意思疎通が図れる訳もなく、彼の感心はすぐに側の娘へと移行した。
「で、グズルトはいったい二人にどれだけの迷惑をかけているんだい?」
「ちょっとお父さん、それはないよー」
端から見れば失礼に思える問答も、親子のものとすれば自然。唖然とした表情を浮かべるフローズに対して、ヴィルヘルムは冷静に応じる。
「まぁ、ボチボチって所ですね。根本的な魔法のイメージに問題があるといいますか……」
「逆にどうやって試験に合格したんです、アレで?」
「馬鹿ッ」
一線を大幅に踏み込んだ一歩へ、ヴィルヘルムは更に強い肘打ちを喰らわせた。
理事長の前で不出来な娘の合格方法を問うなど、不正の有無を質問するに等しい。最早理事長の座を狙う間者と疑われても仕方なく、踵を返されても文句は言えない。
事実、単刀直入に過ぎる質問にグンタラの表情から笑みが消え失せ、側のグズルトに至っては顔面を蒼白に染め上げている。
あくまで実力で入学したと信じている彼女が噂を謂れのない虚言と切り捨てられたのは、決定的な証拠を誰も提示できないから。虚言を如何に吹聴しようとも、肝心の真実が闇の中に埋没しているからこそ、彼女は自らの実力を信奉できるのだ。
「……不正はしてないよ。試験結果に関しては、当然公開できないけどね」
「そう、だよね。お父さん」
「あぁ、当然じゃないか。グズルト」
声を微かに震わせ、父親へ問いかけるグズルト。それに朗らかな笑顔で返すと、手を頭へ乗せて撫で始めた。
顎を撫でられた猫よろしく顔を蕩けさせ、少女は先程まで抱いていた不安を嘘のように霧散させる。心底気持ち良さそうな顔色にフローズもそれとなく頭を近づけるが、ヴィルヘルムからの返事は頭への平手打ち。
「ぁう……ヴィル様ー」
「当たり前です、馬鹿が」
吐き捨てる言葉にわざとらしい涙目を浮かべるも、グズルトを手伝おうとした動機から言って許容できる範囲を大幅に超過していた。無視しては恩を仇で返すことになる。
「にしても、ここまでの憎まれ口……グズルトもだいぶ迷惑をかけているみたいだ」
「迷惑だなんてそんな……僕も彼女に助けてもらった身ですから」
「私もあくまで私怨のようなものですので、ヴィル様は全く悪くありません」
悪びれもしないフローズの態度を無視し、グンタラは人差し指を立てた。
「それじゃ、今日は私の奢りでどこか食べにいかないかい。娘が迷惑をかけているんだ、父としてそれくらいはさせて欲しい」
「これはこれは、実にありがたいご提案です。このヴィルヘルム、フローズ両名が応じましょう」
大袈裟に右腕を振ると頭を下げ、芝居がかった言い回しで少年は了承する。フローズは不服な感情を隠さないが、主人が了承した以上は奴隷が己の意志で否定することはない。
妙に大仰な言動にグンタラは白髭を揺らし、グズルトの赤毛も肩と連動する。
身体を起こし、周囲の笑みを意に介することなく右側の髪を横に流すと、漆黒の瞳が黒縁眼鏡を見つめた。
「ところで、僕は今からでも行けますけど他の方はどうします。特に女性の方々は下準備に色々あるのでは?」
「だったら、私はちょっとシャワー浴びてくる」
「私も汗を流したいです。それにおめかしもしたいですし」
少女二人は言葉の端々に違いこそあれども、大差ない内容を口にした。元々訓練で汗を流しているグズルトではなく、フローズが汗を流したいと言った理由は不明だが。
二人の主張を尊重し、グンタラは咀嚼するように首を何度か縦に振る。
「だったらフローズ君とグズルトの準備が出来次第、街に出ようじゃないか。シルヴィヴァレト君は私と一足先に馬車にでも乗っておくかい」