目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
【ヴィルヘルム・ロ・シルヴィヴァレトその10】

 空を漆黒の天幕が覆い、月明かりの淡い光がシルヴィヴァレト邸を包み込む時分。

 闇夜に紛れた二人組は通る者のいなくなった無人の廊下を素早く駆け抜ける。窓から差し込む月光が微かに照らす容姿は、決して背丈は高くない。

 本来は等間隔に設置されていた甲冑装備の自動人形達は、自身を収納していたスペースから抜け出して各々が指定された領域の見回りへ赴いていた。暗がりに時折鳴る金属の軋む音は侵入者の恐怖を煽り、ともすれば足を竦ませる。

 しかし、此度廊下を駆ける影は自動人形の周回パターンを把握しているかのように縫い目を掻い潜って先を目指す。

 やがて到達したのは、身の丈よりも大きな扉。


「流石に、開けてた窓は全部閉じられてましたね……」


 嘆息を一つ、幸福を逃がすと影の内一つが扉の取っ手を掴む。

 可能な限り慎重に扉を引くも、どうしても物々しい音が屋敷内部に木霊する。背後に立つ影は不安そうに視線を左右させるが、一方でもう一つの影は人一人が通れる隙間を開けると背後の影へ手招きした。

 手招きに応じて影は進み、通過を確認するともう一つも続く。

 支えを失った扉は自重で元の位置へと移動する。やはり物々しい音を背景に。


「良し。まずは第一関門突破、って所ですね」

「ほ、本当にこれっていいんですか……ヴィル様?」


 満天の月明かりが屋敷を抜け出した影を照らし、輪郭に色を加える。

 一つはヴィルヘルムを、一つはフローズを形成する影達は各々の感情を発露しながら赤煉瓦で舗装された道を進む。庭内にも自動人形は配備されているが、そちらも既に周回パターンは把握済み。

 今更捕まるはずもなく、柵を乗り越えてヴィルヘルム達は容易くシルヴィヴァレト邸を脱出した。

 盗賊団の潜伏先と目される森林地帯は、幸いにも屋敷から程近い場所に位置している。もしくは距離が近いからこそ、父親は記事を切り抜いたのかもしれない。

 いずれにせよ、森へ足を踏み入れた二人は野生動物に警戒しつつ人の痕跡を探る。

 庭内の整備された緑とは異なり、天然の自然はたとえ季節が寒冷に差しかかろうとも緑を絶やすことなく根を張り巡らせる。

 雪の一つも降らず、地面を埋め尽くす白を用いずに死の季節を謳うなど片腹痛いとでも言わんばかりに、森は強大なまでの生命力に満ち溢れていた。

 ヴィルヘルム達が辺りを捜索していると、やがて地面にくり抜かれた洞窟を発見する。


「他のアテもないし、調べてみますか」

「だ、だったら……だったら私が先に行きます!」

「お、おう……頼みましたよ、フローズ」


 万が一を考慮したのか、自ら先陣を切ると主張するフローズに面食らいながらもヴィルヘルムは彼女の言葉を肯定した。

 洞窟内部は予想よりも狭い。月明かりが届かなくなる程度に進めば焚き木の後や食い散らかした食べ物の滓に群がる蟻など、人が寝食を重ねた証拠を容易に発見できた。

 どこか一定の感覚で整えられた印象を受ける洞窟の内部は、人為的な手を感じさせる。その割に長期間過ごすのに適しているとは言い難い環境は、過去に何らかの目的があって構築された場所を間借りしたのかと推測できた。


「つまり、相手は魔法を使える訳じゃ……」


 しゃがんだ姿勢のまま、フローズへと振り返るヴィルヘルム。

 刹那、少女の背後で影が蠢く様を目撃し、更に頭上へ振り上げられた鈍色の刃が背筋を凍らせた。

 左手で地面を押し込み、両足と合わせた三点で加速。ヴィルヘルムはフローズの懐へ跳び込むと、全速力でタックル。強引に刃の軌跡から逃れさせる。


「ガッ……!」


 しかし、回避し損ねたヴィルヘルム自身の背を鈍色の刃──血錆が色濃い大斧が切り裂く。

 紺のジャケットが破け、鮮血の華が壁面へ咲き誇る。掠めたとは思えない一撃の被害に、状況への理解が及ばないフローズは呆然と言葉を呟くのみ。


「ヴィル、さ……ま?」

「なんだなんだ。誰が来たのかと思えば、まだケツの青いガキじゃねぇか」


 声のした方角へ振り返れば、返り血と泥に濡れた衛生面への配慮に著しく欠けた男の姿。

 大斧を振り下ろした男は粗雑な様子で腕を振るい、刃に付着した血を飛ばす。見下ろす視線に、背中から多量の血を流す少年への皮肉染みた同情を乗せて。

 身を割かれる灼熱の激痛に呻く声は、彼が未だに生命を繋いでいる雄弁な証拠。尤も、速やかに適切な処置を受けられなければ苦痛の時間が徒に引き延ばされるにすぎないが。


「おぉ、女もいるのか。こりゃ売れば結構な金になるかもな」

「お、まえが……」


 フローズに気づいた男が下品な笑みを浮かべると、少女の周囲が俄かに冷気を帯びる。


「お前が、ヴィル様を……」


 まずは壁面へ刻まれた血痕。次に熱を失いつつあるヴィルヘルムから零れたばかりの鮮血。そして食べ滓に群がっていた蟻。

 音を立てて軋み、熱を失った万物が氷結する。

 死の季節が未だ訪れないというのなら、今ここに世界を凍らせよう。永劫止まることなき時の流れさえ氷の檻に沈めれば、熱を失いつつある少年が天の門を叩くこともないのだから。

 故に世界よ、凍りつけ。少女の垂れ流す魔力の奔流の前に。


「お前がァッ!!!」


 獣の如くに弾け、フローズは両腕を振るう。

 それを単なる自棄と切り捨て、男は悠然で大斧の腹を盾にする。

 二十歳にも満たぬ女の拳で、人体を強引に引き裂く重量と鋭利さを兼ね備える斧を砕くことなど夢想の果てと冷笑するように。

 しかして、拳も握らぬ少女の両腕が薙がれた時、予想だにしない光景が訪れた。


「あ?」


 不自然な衝撃。岩盤に刃をぶつけたかのような耳障りな音。視界を俄かに照らす火花。そして、零れる白い呼気。

 押し出され、足元に轍を刻んだ男の視線は手元の得物へと注がれ、驚愕に目を見開く。


「なんで傷が……!」


 十字を刻まれた腹から破片が零れ、足元で音を立てた。貫通する程には至っていないものの、買い替えが必須なのは誰が見ても明らかな損傷。

 異常事態を前に男が視線を上げると、更なる驚愕が心中を空白に染め上げた。


「フゥー……フゥー……フゥー……!」


 獣の如き前傾姿勢で佇む少女の腕を追随して、氷の刃が浮遊していたのだ。

 弧を描く不格好な刃は氷山からくり抜いて加工したのかと疑う歪さと、それでいて人体を貫くには不足ない鋭利さと重量を兼ね備える。直撃の瞬間に全てを開放すべく脱力した腕につられて揺れ動く様は、さながら侵入者を待ち受ける振り子刃。カーディガンを貫通して水色に輝く幾何学模様が腕を通じ、得物の不気味さを一層強烈に印象づけた。

 左右で色味の異なる紫の眼光が歪む。

 殺意を漲らせる左の鋭利さと、無貌の如く見開かれたままの右。

 アンバランスな光景が男の心中に恐怖の二文字を深く刻みつけ、一歩の後退を余儀なくする。


「ま、魔法ッ……詠唱もなしに……?」


 男は知らず、己の無知を晒す。

 脳内のイメージを克明とする詠唱の伴わない魔法など存在せず、無詠唱で行えるものは祝詞を必要としないまでに明確な図を浮かべられる場合のみ。

 そして眼前の少女が行っているのは、あくまで魔力の垂れ流し。彼女の類稀な体質が氷と冷気という形を以って魔力を出力しているに過ぎない。

 心中に生まれた隙を逃さず、フローズは白息を零して突撃。

 炸裂した地面の衝撃に洞窟が震え、揺れ動く大気が周囲の物体を弾く。そして男は恐慌状態に陥り、咄嗟に大斧を振るった。


「あ、あぁぁぁッッッ!!!」


 自らに巣食った恐怖を振り払わんかのような一閃は、しかして少女の氷刃によって容易く粉砕される。

 ガラス細工よろしく砕け散る刃の奥より、恐怖の根源が迫る。

 左腕を振り上げ、男を一撃の下に撃滅せしめんと。


「ガァッ!」


 荒々しい一閃。

 獣が爪牙を振り下ろすにも等しい獰猛な一撃が、男の胴体を袈裟掛けに切り裂く。削ぎ落としとでも揶揄すべき切り口から一拍遅れで鮮血が飛び散り、フローズの青白い肌を朱に染めた。

 斧の柄が地面に転がり、男は力なく膝から崩れ落ちる。うつ伏せの姿勢でも収まることなく流れる出血は岩盤に血の海を形成し、フローズの厚底靴にまで及んだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……!」


 初の魔力行使に加え、命のやり取りに少女は肩を上下させて深呼吸を繰り返す。

 湧き上がった激情の発露も男が倒れたことで収まり、氷刃も水滴を零して徐々に形を無くしていく。

 と、同時に頬を伝うは一筋の涙。

 冷静さを取り戻したことによって背後で熱を失いつつある主人を思い出したがために。裂傷に対する対策など有しているはずもなく、そも深々と刻まれた一撃を治療する術があるのか自体、彼女は疑問視していた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?