脱衣所を抜け、浴室へと足を踏み入れた二人。
二人の前に現れたのは、大浴場と呼ぶに差し支えない湯気が立ち込める空間。
大衆向けに開かれた銭湯を彷彿とさせる広さに面食らうヴィルヘルム。一方で根本的に風呂への知識が乏しかったのか、フローズは不思議そうに呆けてこそ入れども驚愕の色は薄い。
付近の洗い場にヴィルヘルムが着席し、続くフローズが前任者に倣う。
「水道あるんですね、ここ……」
手前で鈍い輝きを放つ蛇口を見つめ、ヴィルヘルムは率直な感想を述べる。
そもそもヨーロッパ方面に流れる水質は栄養面に優れる代償として風呂に適さず、長時間浸っていると肌が荒れるなどの問題が起きると耳にした覚えがあった。
彼が前世で得た知識とは裏腹に、蛇口を捻って流れる温水は心地よく、日本で浴びるそれと大差がないように思えた。もしくはこれも、地域事情の範疇なのかもしれないが。
桶に溜まった湯を頭から浴び、程よい刺激に一日の疲労が解け落ちる感覚をヴィルヘルムは覚えた。
「普段は家族用の個室を使ってるんですけど、使用人用の方もいいですね」
などと口にして横を見れば、フローズは白髪を微かに震わせて視線を左右に振るばかり。
風呂という文化に触れる機会に乏しかったのか。少女は何をすればいいのか検討もついていない様子。
ヴィルヘルムは何度か頷くと、桶に温水を溜めてフローズの背後に立つ。
「せっかくですし、手伝ってあげますよ」
「?」
「目を閉じて下さい」
何が起きるのかも分かっていないフローズは、ただヴィルヘルムに促されるままに目を閉じる。妙に力強く閉じたためか、眉間に皺が寄っているのも一興か。
行きますよと一言つけ加えてから桶を頭から引っ繰り返すと、熱湯がフローズの髪を濡らす。
「わ……!」
「あれ、あんまり濡れてないですね?」
突然浴びせられた湯に動揺するフローズの一方、ヴィルヘルムは思いの外に水分を弾く様子に首を傾げた。
髪や皮膚に付着した汚れが悪さしているのかと、再度桶に湯を溜めてから流す。
何度か繰り返せば、正面に設置された鏡の前に全身を水気に包んだ少女が写し出された。手を加えられることなく無造作に伸ばされた白髪が水にしなる様は、さながら犬を彷彿とさせる。
「こ、これ……私?」
髪の奥から覗く紫の瞳が、鏡に映る自身を興味深そうに眺める。まるで汚泥を拭い去った姿を久しぶりにみたとでも言わんばかりに。
「やっと、いい感じに濡れましたか……」
嘆息を零す漆黒の瞳は、漸く結実した労力を鏡越しに確認すると次はシャンプーを泡立てる。
「次は髪を洗いましょうか。それじゃ、また目を閉じてください」
「ッ……!」
「?」
手を頭部へ伸ばした直後、フローズは反射で背中を丸めて目を瞑る。突然の仕草にヴィルヘルムが腕を硬直させると、少女は訂正の言葉を慌てて紡いだ。
「ち、違うの……わ、私、その、頭は……!」
つんざく悲鳴にむしろヴィルヘルムが動揺する中、切羽詰まった態度の少女は慣れない調子で言い訳を続ける。
その顔色は温水で少なからず温まり、血流も良好になっているにも関わらず血の気が引いていた。ただでさえ青白い肌から朱が抜け落ち、死体の様相を呈するほどに。
「あ、あた……頭は、髪は引っ張らないで……!」
「ん。そんな酷いこと、言われるまでもないですよ」
「ホント、ホントに……?」
「大体、こんな綺麗な髪を傷つけるなんて勿体ないじゃないですか。
そうだ、後で髪を切りましょう。せっかく凄い綺麗なんですから、髪も相応しくしないと」
不安そうに首を下げ、それでも視線だけは上向きに鏡を覗くフローズ。その先に反射するヴィルヘルムは、満面の喜色を浮かべて少女を褒めそやした。
毛量に苦戦し、また全身にこびりついた汚れをこそぎ落とすのにも苦労しつつ、十数分をかけて二人は浴槽を満喫する。幸いとでもいうべきか、途中で使用人が一風呂浴びようと傍流することはなかったため、ヴィルヘルムは二人きりの時間を過ごせたことに内心で拳を天へ突き上げていた。
脱衣所に併設された洗面台に着席するフローズは、居心地悪そうに鏡の前で佇む。
理由は簡単、奴隷と主人の関係が逆転しているから。
「それじゃ、散髪をしましょうか」
「え、ぅん……でも、ヴィルヘルム様……」
「ヴィルでいいですよ。そんなに畏まらないで下さい」
穏やかな口調で怯える少女の背後に立つヴィルヘルム。
上機嫌に動く右手には、漆黒の刀身を持つ鋭利なナイフが握られていた。
父親の伝手を頼って購入した暗黒物質製のナイフ。本来は魔力を通さない刃先を、不自然に鮮やかな色味の緑が覆っている。
「まずは、その綺麗な顔が見えるように、っと」
「……!」
主人の態度を見て、なおも心中にこびりついた不安の拭えない少女は思わず目を強く瞑る。
自分の髪に金銭的価値があることは、なんとなく感じ取っていた。
それは奴隷市場を運営していた男性やその部下、そして彼女を捕縛すべく血眼になって捜索した集団の態度からも明らか。別の部分に価値がなければ、醜い火傷痕を有し肉体労働に適さない少女を買う訳がないのだから。
ヴィルヘルムの手が、努めて優しくフローズの頭に触れる。
一瞬、身体を竦める少女。が、絹織物でも扱うかのような手触りに乱暴な側面はなく、軽やかな音がなる度に頭が軽くなる。
はずであった。
「ん……?」
不自然な感触に目を開く。
すると、フローズの眼前で白髪が伸び、先端が床を撫でた。
「なん、で?」
「散髪は傷じゃねぇでしょうが……融通が利かない」
謎の現象にフローズが振り返ると、そこには奥歯を噛み締めるヴィルヘルムの姿。
何に対してかも分からない。が、少なくとも少女に注がれてはいない敵意に微かな怯えを見せると、遅れて気づいた少年が慌てた様子で取り繕った。
「あ、あのー……まー、あれです、あれ……ちょっと面倒な問題を抱えてましてね」
「…………ふふ」
左手で頭を掻く様が無性に面白く感じ、少女は思わず微笑みを漏らす。
奴隷市場で出会って以降、漸く見せた笑みに少年も頬を緩め、やがて腹を抱えて大笑し始めた。
「ハハ、ハハハッ……すいません、なんだか妙に面白いことに……!」
「いえ、いえ……ふふふ、ふふ……私も、なんだか、ふふ……!」
心が通じ合う、と呼ぶにはあまりにも初歩的。牛歩と揶揄されても仕方ない進み具合。
だが、それでも確かな足取りを二人は共に歩み始めた。