「すみません、そこの女の子なんですがッ!」
「なんだぁ。誰の連れ添いだ、ガキ?」
「……」
先程の男とは異なり、少女の腕を掴む男はヴィルヘルムのことを冷やかしとでも断言するかの如く接する。奥歯を噛み、露骨に表情を歪めるのも相手を下に見る証左か。
一方で白髪の少女は視線を地面へ向けたまま、顔を合わせようともしない。
「その女の子って、その……商品ですか?」
「お、コイツを買いてェってのか。そりゃあいい、コイツは特売品でな」
「いッ……!」
男は痛がる少女の悲鳴など関係ないとばかりに腕を引っ張り、無理矢理ヴィルヘルムの前に立たせた。もつれる足で転びそうになるのも、男からすれば些事ということか。
特売品。
幼いなりに引っかかりを覚えたのは、控え目に言って少女が買い叩かれる理由が浮かばないため。
環境から乖離した印象を与える白髪など、オークションに出品されることこそが正道に思える程に。満足な食事さえ与えれば、環境さえ変われば少女の持つ資質は開花するに違いない。
「なんだよ、せっかくの特売なんだぜ。それとも……」
「やめッ……!」
眼前の少年が特売の理由を疑問視したように見えたためか、男は空いた左手で少女の前髪を掴むと強引に吊り上げた。
死体を連想させる青白い肌に紫の瞳、目尻に涙を浮かべた少女の表情は嗜虐心をそそる。しかし、先程までと同一の感想を抱けるのは右目を中心とした部位を目の当たりにするまで。
「……!」
「ちゃーんと安い理由を知れなきゃ安心できない性質かい?」
「痛ッ、離して……!」
「うっせぇな、黙って媚びてろよ」
少女の甲高い悲鳴など意にも介さず、男は下品な笑みをヴィルヘルムへと向けた。
しかし、彼の頭には男の表情など意識の外。心を奪われる代物がすぐ近くに存在するのだから。
剥き出しになった右目の紫は濁り、周囲の皮膚は焼け爛れ醜悪な有様を晒す。連想するのは肉体の損壊に気づくことなく生者の真似を続けるゾンビ。だが、目に浮かべる滴こそが彼女の精神が死んだ訳ではないと証明する。
「分かりましたんで、ちょっと髪から手を離してやって下さいな」
「へいへい」
「ぁ……」
奴隷に同情しやがって、と言いたげな表情だが、実際に客へ噛みつくことはない。生まれたフラストレーションを発散する先が握られていたために。
言われた通りに手を放し、次いでに右手も自由にする。結果、宙に浮かんでいた少女の身体は重力に引かれて落下。痩せた身体を支えるには足腰も貧弱に過ぎ、崩れ落ちるように尻餅をついた。
すると、背後から喧騒とは違う声が鼓膜を揺さぶる。
「ヴィルヘルムッ。不必要に動くなと言ったはずだぞ!」
「まぁまぁ先輩。子供の我儘なん……おまッ、そいつの顔!」
振り返れば憤怒の形相を浮かべた父親、そして少女を認めて必死の形相を注ぐ男性が続く。
恰幅のいい男は少女を押し抜け、男性の首根っこを掴み上げた。息がかかる距離まで顔を近づけ、口を開く度に涎が顔に付着する。
「そいつを売る時は顔を隠せって言っただろうがッ!」
「で、ですがね大将……!」
「じゃあ、お前はあの面見て買うっていうのかッ。えぇッ?」
額に青筋を浮かべた男性の怒りを他所に、ヴィルヘルムは少女へと駆け寄る。
座り込んだ少女は俯いた姿勢のまま、糸が途切れたかのように微動だにしない。
「大丈夫ですか?」
「……」
呼びかけにも応じず無言を貫く少女へ、ヴィルヘルムは頬へ手を伸ばす。
一瞬、頬が引きつったように見えたのは奴隷という境遇からして偶然ではなかろう。それでも抵抗のために動く気配がないのは、ある種の諦観が成せる業か。
努めて優しく、繊細なガラス細工を扱うように頬へ触れる。掌に伝わる感触はやや角ばりつつも暖かく、肌や髪色からくる印象とはかけ離れていた。
少女と視線を合わせ、紫の瞳を見つめる。
「凄い綺麗だ……」
「……?」
ヴィルヘルムが呟いた言葉に理解が及ばず、少女は僅かに首を傾げて頭上に疑問符を浮かべる。
顔に醜い火傷痕がある人物に対して綺麗などという形容詞が当て嵌まる訳がなく、少女が自身を指して言われていると認識しないのもまた当然。
無垢にすら映る仕草を前に、ヴィルヘルムは頬を緩めて少女を撫で回した。
「可愛い、凄い可愛い……君、名前はなんて言うんです?」
「……わた、私は……」
気づけば両手で撫で回していた少年に困惑し、促された通りに名前を口にしようとするも、頬を好き勝手にされては碌に言葉を紡げない。
ひたすら可愛いと連呼して頬を撫でるヴィルヘルムの姿は、ある意味では類を見ない恐怖を植えつける。一心不乱な様は意識的に心を閉ざそうとしていた少女を強引に解きほぐし、咄嗟に顔を振って払い除ける仕草を見せた。
手を弾かれて驚愕よりも期待の眼差しを注ぐ少年へ、少女は仄かに恐怖の混じった視線で返す。
「わた、私は、フローズ……」
「フローズかぁ……いい名前ですね。僕はヴィルヘルムって言うんです」
首を傾げて笑いかけ、ヴィルヘルムは立ち上がって父親と向き合う。
掌に残る感触を思い出すよう、何度か開閉を繰り返す。すると、眼前で憤怒の炎を燃やす男と相対することにも抵抗は薄くなる。
「お父様。あの女の子、フローズっていうらしいんですけど。買っていいですか?」
「好きにしろ、一人買う分には何かを言う気もない」
関わるのも嫌とばかりに即答し、父親は部下と思しき男性に唾を飛ばし続ける後輩へ歩み寄る。足早に市場から去るべく購入の意志を伝え、手短に話を終わらせるために。
一方で父親が通り過ぎた直後にヴィルヘルムは破顔して振り返り、再度フローズの元へと走り出す。視線を合わせるために座り込めば、彼の視界には左右で極端に美醜の分かれた顔立ちの少女。
再度入り込んだヴィルヘルムの顔にフローズは微かな怯えを見せるも、肝心の相手は気にする様子を見せない。
相手の心情を無視した強引な様子は、ある意味では奴隷の購入者に相応しいか。
「やったですよ、フローズッ。お父様も許可してくれました!」
「……?」
「ホラホラ、もっと喜んでくださいよッ。これから一緒なんですから!」
少女の手を掴むと、ヴィルヘルムはまるで友人にするかのように両手を力強く振る。困惑するフローズは流転する状況に理解が及ばず、呆然とした表情を深めるが、彼はただひたすらに自身の喜びを分かち合うべく行動に示す。
「そうだ、下の名前はなんなんですか。そっちを聞いてなかったですね」
「下、名前……?」
「そうですよ。フローズ何なんです?」
「下、名前……知らない……」
質問に答えられない罪悪感、というよりも叱責を恐れてフローズは視線を落とす。
視線を逸らす理由に見当がつかないヴィルヘルムは少女の口が紡がれるのを待ち侘びるが、そこに頭上から声を投げかけたのは嫌悪の色を幾分か薄めた父親であった。
「こんな場所で購入者を待つような境遇だ。家名など持てる訳がないだろう」
息子の不躾を諭すべく、努めて声音を優しくした言葉にヴィルヘルムは我に返り、腕の動作も不自然な部分で静止させた。
日本に於いても、シルヴィヴァレト家に転生してからも。
苗字と名がセットの生活を繰り返し、周囲の人間も一様にそこに倣っていただけに、名前だけの人物がいるという部分にまで思慮が回らなかった。指摘されれば、むしろ何故そこにまで至らなかったかと反省の念すらも浮かぶというのに。
父親は五歳の子供を諭しているつもりだろうが、本来の年来ならばより強い語気で責め立てられても文句の言えない愚挙。
次はヴィルヘルムが視線を落とし、数秒の内に上向きへ持ち上げた。
「だったらフローズも僕と同じ名前を名乗りましょうッ。フローズ・シルヴィヴァレトって、いい響きだと思いませんか!」
「え……?」
「は?」
ヴィルヘルムの提案に大口を開けるフローズ。
そして父親は一瞬思考が理解を放棄し、やがて火山の噴火にも等しい怒気が急速に湧き上がる。
「そんなことが……そんなことが許されるかッ、馬鹿息子が!!!」
テント中に響き渡る怒声は、その日一番の衆目を人々から集めた。