戦場とは違う緊迫した気配。真冬の雪山よりも凍った空気。指一本動かせず、笑いあう二人を見ることしかできない。
そこに朗らかな声が春風のように吹き込んだ。
「あなた、
母の言葉に父の空気が緩む。というか、先程の極甘な雰囲気に戻った。
父が母を抱き寄せて豪快に笑う。
「そうだったな。悪い、悪い。つい、先走っちまった」
それからリロイを見下ろす。
「
その言い方に裏を感じた私は父に訊ねた。
「まさか、王を叩き出したことがあるのですか?」
私の問いに母が懐かしそうに話す。
「あの時のあなたはとても勇ましくて、私は何度目かの一目惚れをしてしまいましたわ」
一目惚れなのに何度目とは、どういうことなのか。
私とリロイが首を傾げている前で父が母の髪を愛おしそうに撫でる。
「おまえを奪おうとするヤツは王でも容赦しねぇよ」
「ふふふ。その激しさに私はいつも焦がれておりますわ」
「じゃあ、俺が落ち着いたら焦がれなくなるのか?」
少し考えた母が恥ずかしそうに父から顔をそらした。両手で頬を押さえ、もじもじとしている。
「あぁ、どうしましょう? 落ち着いて渋みがあるあなたも素敵ですわ。想像するだけでドキドキしてしまいます」
恋する少女のように頬を染めて恥じらう母。その小さな顎を父の太い指がすくいあげ、そのままズイッと顔を寄せた。
「そんなこと言ってると、俺が未来の俺に嫉妬するぞ」
「まぁ、嫉妬だなんて嬉しい」
うっとりと見つめあい、今にも口づけをしそうな雰囲気。完全に二人の世界で、極甘を通り越して砂糖漬け。
普段なら「お二人で勝手にどうぞ」と離れるけど、今はリロイを案内しているため逃げられない。
(私は何を見せられているのか……)
呆れながらも、そっと隣に視線を移せばリロイが神妙な顔で父と母を観察している。
燃えるような赤に襟足だけ長く伸びた髪。何を考えているのか読めない琥珀の瞳。まっすぐな鼻に薄い唇。眉目秀麗な顔立ちに、鍛えられた体。そして、微かに香るレモングラスの匂い。
外見だけなら極上なのに。
前世で私を殺した騎士の生まれかわりにして自国の第三王子。何を考えているのか分からない未知の生き物。
(
現状の直視を諦めた私は思考を遠くへ放り投げた。
応接室に移動した私たちは軽食と飲み物を前に雑談していた。
酒のつまみや茶菓子を置いたローテーブルを挟んでソファーに腰をおろす。正面には二人掛けのソファーに寄り添って座る父と母。
私は二人の斜め前にある一人掛けのソファーに座ろうとしたのに、リロイに引っ張られて何故か二人掛けのソファーに。隣には当然のようにリロイがいる。そのため、肩が! 肩が触れて!
居心地が悪い私とは対照的に、爽やかな笑顔をしたリロイが王都の話で場を盛り上げる。
父が興味深く耳を傾けながら小さなグラスに琥珀色の酒を注いだ。
「最近の王都はそんなのが流行っているのか」
「はい。条約のおかげで他国との交易が安定しておりますので、様々な文化も流入しております」
「それは面白そうだな。次に来る時はそういう手土産の一つでも持ってこいよ」
次はない!
叫びたい気持ちをグッと堪える私の隣でリロイが快諾する。
「必ず持ってきます。どのような手土産がよろしいですか?」
「さっき話していた盤上遊戯がいいな。打ち取った敵将を自陣の駒にできるやつ。おまえと対戦したら面白そうだ」
言葉とともに父が酒を入れた小さなグラスをリロイの前にトンッと置いた。
「お父様?」
首を傾げる私を無視して父がニヤリと口角をあげる。
「飲め」
「いただきます」
戸惑う素振りもなくグラスに手を伸ばすリロイ。私は素早くグラスと手の間に扇子を滑り込ませた。
「少しお待ちを。この酒は極寒の雪山でも体を温める、かなりアルコールが強い代物です。体の調子によっては意識を失う可能性もあります。あまりお勧めはいたしません」
そこまで説明した後、私は父を睨んだ。
「お父様、客人に説明もなくこの酒を勧めるのはいかがなものかと思いますが」
私の牽制も父にとってはそよ風のごとく。軽く吹き飛ばすように笑われた。
「最初に言っただろ? 力がなければ叩き出す、と。これぐらいの酒に呑まれるなら、相手にもならんということだ」
「酒に耐性があるかないか、は力と関係ありません。こういうことで力を計るのは筋違いだと思います」
訴える私の袖を何かが引っ張る。そちらに顔をむければリロイがとろけるような笑みで私を見つめていた。
思わぬ反応に若干顔が引きつる。
「なっ……ど、どうかされました?」
「私のことをそんなに心配してくださり、ありがとうございます」
ほぼ反射的に動いていた私は固まってしまった。
(し、心配!? 私、心配していたの!? いや、それよりも今はこの状況をなんとかしないと!)
嬉しそうなリロイに対して私は慌てて言い訳を口にした。
「いえ、そうではなく、その……そう! 客人に何かあったらいけませんから! ローレンス領では客人もまともにもてなせない、なんて噂がたっては困りますから!」
必死に早口で話す私の頬に無骨な手が触れる。王子であり、城育ちであり、剣よりペンを持つほうが多いはずなのに。剣だこでゴツゴツになった硬い掌と指。
どれだけ剣の鍛錬をしたのか。
リロイの手に気を取られていると、そっと耳元で囁かれた。
「大丈夫ですから、黙って見ていてください」
ゾクリと全身に響く美声。思わず両手で耳を押さえたところでリロイが離れた。そのまま小さなグラスを手に取り、一気に琥珀の酒を飲み干す。
「ちょっ……」
驚く私を放置してリロイが小さなグラスをローテーブルに置いた。
その飲みっぷりに父の口角が上がる。琥珀の液体が揺れる瓶を手に持った。
「そうこないとな。ほれ、もっと飲め。あと、これを一緒に食べると美味いぞ」
「はい」
リロイが勧められたチーズを口にする。その間に小さなグラスが琥珀の液体でいっぱいに。
「お父様!?」
「いただきます」
「えっ!?」
またしてもグイッと酒を一気飲みするリロイ。いや、こんなペースで飲んでいたら確実に潰れる。
「そんな飲み方をしたら体を壊します!」
「平気です」
「平気じゃありません!」
止める私の前で父が空になった小さなグラスに酒を注ぐ。するとリロイがもう一つあった空のグラスを父の前に置き、他の酒を入れた。
「私ばかり飲むのも勿体ないので」
「飲み比べか! よし! 俺に勝てたら、何でも一つほしいモノをやるぞ!」
父の言葉にリロイの目が光る。
「その言葉、お忘れなきように」
「いいぞ! おい! どんどん酒を持ってこい!」
父がグラスの酒を豪快に口に入れる。飲み比べも何も父はローレンス領内でも一、二を争う酒豪。勝てるはずない。
「二人とも止めてください! 体を壊します!」
「心配するな。これぐらい問題ない」
まったく聞く耳がない父。こうなったら私では止められない。
私は母に助けを求めた。
「お母様も止めてください」
母が頬に手を当てて困ったように微笑む。
「あら、あら。まぁ、まぁ」
そう言っている間にリロイが三杯目の酒を飲み干す。
「お母様!」
「ソフィアちゃん」
少女のように見える顔が妖艶に私を見つめる。まるで大人の女性が恋の駆け引きをしているかのような目。
「は、はい」
見たことがない母の雰囲気にのまれないように姿勢を正す。
「見守ることが必要な時もありますのよ」
「ですが……」
そのまま黙って微笑む母。灰色の瞳には父を信じろという無言の圧力あり……
私は二人の飲み比べを黙って見守るしかなかった。