日に日に、ヴェシレから聞いた呪術師の話は頭の中で大きくなっていった。
しかし慎重な性格の巡がそれを決断するにはさらに十日が必要であった。
十日後、巡はついに決意した。
彼女はヨンシに頼んだ。
「明日の仕事のためにファミルの花を用意してくれませんか?」
ヨンシは首をかしげながらもその花を用意してくれた。
巡はその花をヴェシレの指示通りに花瓶に生けた。可憐な白い花は窓辺で静かに揺れた。
(これでいいのかな)
巡はちょっとだけ不安になりながらその日の仕事を終えた。
恒例のお茶会でも巡は心ここにあらずといった様子でただ茶を飲み、焼き菓子を頬張った。
レスシェイヌはそんな巡を見て心配した。
「どうかしたのか」
「いえ……」
「なにか困っているのなら、言ってくれ。すべてを叶えてやれるかわからないが、叶えられるように努力しよう」
「いえ、ほんとうに大丈夫です」
「仕事が多いか?」
「いえ。楽しいです」
「城の住み心地はどうだ?」
「みんなやさしくて、もったいないくらいです」
「……そうか」
レスシェイヌが巡にやさしくしてくれればしてくれるほど、巡の心はどんどんヴェシレの話に傾倒した。
(うまくいくといいな)
巡の心はそれでいっぱいになった。
その夜、予告通りにヴェシレはやって来た。
「こんばんは」
最初、巡はそのヴェシレの声がどこからしているのかわからなかった。
巡はあたりを見渡したが、広い寝室には巡のほかに人影がない。
「ここです」
「ど、どこに……」
「こっちですよ」
声のする方に目を向けると、鏡台があった。
「え……!?」
その鏡台、鏡の中にヴェシレはいた。
「やっと見つけてくださいましたね」
鏡の向こうで彼は穏やかに笑っている。
「……なに、これ」
「呪術です」
「呪術……?」
「鏡と鏡をつなげているんです。さあ、手を」
とぷり、と本来硬いはずの鏡の表面が水面のように波紋をつくり、その中心からヴェシレの手がこちら側に出てきた。
非現実的なものを目の当たりにして、巡は動けない。ヴェシレは促す。
「ほら、立派な獣人になりたいのでしょう?」
巡はその手を取った。
強く手を引かれ、均衡を崩す。
目の前に鏡が迫り、ぶつかる、と思って目を閉じた。
しかし、いつまでたっても衝撃は来ず、次に目を開けた時には開けた空間の中にいた。
「ここ……」
振り返ると、後ろには大きな姿身があった。人の背丈の二倍はあろうかというそれは、金の額をもち、驚く巡を映している。
「その鏡と、姉上の寝室の鏡をつなげさせていたんです」
隣でヴェシレが言う。彼は黒いマントを頭からすっぽりと被っていた。
「そんなこと、できるんですね」
「ふつうはできないですよ」
「え?」
「王子やその番が住む城には結界が張られていて、こういった呪術は無効化されるのです。姉上が番として守られている城にいなくてよかったですよ」
「……」
「なあに。そんな顔しないでくださいよ。いまに姉上は立派な獣人になって、もっといい城に住めるようになりますよ」
ヴェシレは笑った。巡はぎゅっと胸元で手を握った。
「別に、いい城に住みたいわけでは……」
巡が言うと、ヴェシレはさらに笑みを深める。
「ああ、そうでしたね。姉上は兄上と結婚したいんでした。でも、それはいい城に住むことと同義ですよ。さあ、行きましょう。呪術師に準備をさせています」
ヴェシレのあとをついて少し歩くと、一度見たことのある場所にやってきた。
屋根のない劇場のような建物。巡は立ち止まってその建物を見上げた。
「……これが、儀式の場所?」
「ええ、どうぞ。お足元、お気をつけて」
そこは巡を召還した場所である。
「教会……」
巡がすべてを言うのを遮って、ヴェシレは胸を張った。
「姉上は獣人として不完全な姿でこちらに召喚されているのです。ようするに、召喚の呪術を失敗しているわけなのですよ。もう一度やり直せば獣人として生まれ直せる可能性が高いでしょう?」
「もう一度、やり直す?」
「あなたを一度あちらに戻して、もう一度こちらに呼ぶのです」
「え? そんなことが?」
「できますとも。そのために教会を使えるように許可をとりましたよ。呪術師もしっかりとした人物です。次は失敗しないように」
巡は不思議に思った。
「……しっかりした呪術師でも、ヨンシやレスシェイヌさんにばれてはいけない?」
「ええ、ええ。表と裏があるように、呪術師は教会の裏側の人間ですからね。表側の人間に存在がばれてはいけないのですよ。とくに兄上のように、立派な道を歩かれる方には」
「……そうなんだ」
わかったような、わからないような気がした。しかし、いまになってやっぱりやめるというつもりはない。
むしろ、奇怪な呪術師が出て来るよりも、教会に所属しているという呪術師がでてきて、少し安堵している。
(大丈夫そう)
大きく、立派な教会。それに、レスシェイヌの弟。
巡にはこちらの世界のことはあまりわからないが、それでもこれだけ立派な場所や立派な人物が関わっているのなら大丈夫だと思った。
巡はうなずいて、教会の中に足を踏み入れた。