その日も、巡は朝から城にやってきて仕事に精をだした。
花は日本で見たことのないものばかりだった。それを見るのも楽しいし、花瓶に花をいけながら、ヨンシがその花の名を教えてくれるのも楽しい。
ようするに、巡はこの仕事を気に入っていた。
巡が一通り花瓶の花を替えたあと、ヨンシが言った。
「さて、水を捨ててまいりますわ」
「うん。いっしょに行くよ」
「いいえ。もうこれで終わりですから、メグル様は待っていてくださいな。なんなら、お先にレスシェイヌ様とお茶されていてもよろしいんですのよ」
ここのところ、仕事を終えるとレスシェイヌといっしょにお茶をするのが恒例になっていた。
彼とそうしようと約束しているわけではないのだが、巡が帰ろうとするとどこからともなくウィーダが現れて彼に連れられてレスシェイヌのもとに行く、という流れになっていた。
巡としてはウィーダが迎えにきてくれなくてはレスシェイヌのもとには行きにくいところがある。
それで巡は首を振った。
「……ここで待っています」
「はい、では」
歩いていくヨンシを見送ったあと、巡は所在なく廊下を行きかう人をぼんやりと眺めた。
レスシェイヌの城にいる使用人たちはみなそろいの濃紺の衣を着ていた。胸元にはレスシェイヌの徽章である月と薔薇の刺繍がほどこされていた。
みな忙しそうに動き回っている。それでも巡とすれ違う者はひとりもいない。巡に近づかないように避けているようにも思えた。
(考えすぎならいいんだけど)
巡は身を小さくした。
考えすぎ、誰もこちらをそんなに気にしていない、と学校生活で百回は聞いた言葉を自分にもう一度言い聞かせる。
しかし、どうしても巡の傍を通る者がいないと、考えてしまうのだ。
(腫物扱いされてる……)
空気のようにいないもの、ではなく、扱いにくい嫌なもの。
そう思われているような気がして身がすくむ。
(ウィーダさん、まだかな)
いつもなら彼がどこからともなく現れて仕事終わりの巡をねぎらってくれるのだが、まだ彼の姿は見えない。
巡は足元に視線を落とした。
そのとき、巡の名を呼ぶ者が現れた。
「メグル様」
弾かれたように顔をあげる。しかし、そこにいたのは待っていた茶色いくせ毛の男ではなかった。
「えっと……」
巡は目を数回瞬かせた。黒い耳に、黒い短髪の男。
「ヴェシレと申します」
「ヴェシレさん」
「いやだなぁ、気安くよんでください。ヴェシレ、と」
巡は男をじっと見つめて、それからおずおずと言った。
「……教会で、お会いましたよね?」
例の教会で巡に「耳がないね」と指摘した男がこのような顔だった気がした。鋭利な黒曜石の瞳に、薄い唇。
男は笑った。
「覚えていてくださって光栄です、姉上」
「あ、姉上って」
「レスシェイヌは私の兄なのですよ」
「え? そうなんですか? 似てないですね」
巡がぽろりと言った言葉に、ヴェシレは一瞬眉をひそめた。
しかしそれはすぐに笑顔に戻る。
「……異母兄弟、といえばわかりますでしょうか?」
「異母兄弟……」
巡は黙った。自分がなにか失敗をしてしまった気がしたが、それをどのような言葉で挽回すればいいのかわからない。
しかし、ヴェシレは意に介さないといったようすで話を続けた。
「お仕事をはじめられたと聞いて」
巡はもごもごと答える。
「いえ、お仕事というより、その、お手伝いで……」
「ご立派なことですね」
「そんなことは」
「お花がお好きなんでしょうか。持ってきました。どうぞ」
彼はそう言って白い花束を差し出す。それは可憐な小さな花だった。
「あ、ありがとう、ございます……」
「兄には気に入られそうですか?」
「へ?」
「兄はあなたと結婚なさらないと聞きました」
彼は一部の隙も無い笑顔を浮かべている。その表情からは感情が読み取れない。
巡は一歩退く。
「……そうなんです」
「そうなんです、とは。また呑気な」
「呑気、ですか」
「番ですから。結婚したいものでしょう? 兄上はいったい何を考えているのやら」
「……その番というのは、私にはちょっとわからなくて」
「あなたがわからずとも、兄上はわかっているはずですよ」
「はぁ……」
あいまいな態度をとる巡に、ヴェシレは肩をすくめた。
「我々獣人は結婚してはじめて成獣ですからね。成獣ではない者が王に立ったことなどありません。兄はあなたと結婚しなくてはならない」
「え……」
「兄は番と出会えば成獣だと言い張ってそれで後継者として指名をうけるつもりのようですが……諸侯はそれで納得しませんよ」
「……ええっと……」
「メグル様がちゃんと私の姉上になってくだされば、兄上にとっても我が国とっても最善なのですが」
情報量が多すぎて、飲み込み切れない。巡は首を振った。
「わ、私は……。それは……レスシェイヌさんが決めることなので」
理解を放棄した巡に、ヴェシレはさらにたたみかける。
「やれやれ。あなたも我が国が跡継ぎをめぐって混乱に陥ってもいいとおっしゃるのですね?」
「私は、耳としっぽがないので……」
「そんなもの。ないのが嫌なら生やせばいいではないですか」
「え?」
「呪術師がいます。異世界からきて耳としっぽを獲得しなかった者にもう一度耳としっぽをさすげる呪術を使います」
「そんなことが……」
「この呪術師の存在は秘密なのです」
「どうして、それを私に言うんですか?」
「あなたに必要でしょう?」
ヴェシレは笑みを一層深めた。
巡は唾を飲み込む。
ヴェシレはその薄い唇に立てた人差し指を当てた。
「もしあなたにその呪術を受けるおつもりがあるなら、私に連絡してください。もちろん、兄上にも、ヨンシに内緒で」
「……な、なんで、内緒……」
「危険な呪術なのです。きっと兄はあなたをとめる。でも、危険を冒す価値はある」
巡の背中につうっと冷たい汗が流れた。
(危険な呪術……)
それは、どのようなものなのだろうか。
自分を、ほんとうに完全にふつうにしてくれるものなのだろうか。
訊きたいことは山ほどある。
しかし、どれも堰き止められたように声にならない。
ただ、巡の脳内には自分の姿が浮かんだ。その姿には立派な獣人の耳としっぽがある――。
「方法は、そうですね。この花瓶」
ヴェシレはついさきほど巡が花を生けたばかりの出窓の花瓶を指さした。
「この花瓶に白いファミルの花を活けてください。それを見たら、その夜にお城へお迎えにあがりますよ」
「ファミルの花って……」
「さしあげたこの白い花のことです。覚えておいてくださいね。私の徽章でもあるのです」