その翌々日から、巡のお仕事がはじまった。
叡盟城にレスシェイヌからの迎えの馬車が来る。巡はそれに乗り込んで、レスシェイヌのいる城に向かう。
そしてその城で巡に与えられたのは、城中の花瓶に花を生ける仕事だった。
「ほんとうに、これって仕事って呼んでいいのかな」
花瓶に花を生けながら、巡はそうつぶやいた。
花瓶といっても、応接室やエントランスなどのたくさんの人の目に触れてその空間の主役となるような花瓶ではなく、廊下の窓などに飾ってある一輪挿しを担当することになっている。
それはまるで中学生のときの美化係がやっていたような仕事だ。仕事をしたことがない巡でも、この仕事が簡単であることくらいはわかる。お手伝い。その表現がいちばんしっくりくる。
「よろしいんですよ」
ヨンシが言う。彼女は巡の仕事を手伝って水や花をいっしょに運んでくれている。
「私、役に立ててる?」
「メグル様が選んだ花を見て、皆心癒されますよ。きっと」
そうだろうか。巡は首をかしげた。
しかし、新鮮な花を飾ると窓辺が華やかになるのは事実だ。綺麗な花は清廉な空気を運んできてくれる。それにつられて、廊下を行く人も笑顔になればいいとは思う。
(なんか、思っていたのとちがうけど)
これはこれで楽しい。
レスシェイヌがいる居城に出入りできることも、花瓶を洗うことも、花を選ぶことも。
やれと言われた仕事を、できた。
それは巡の自信になった。
一通り城の中の花瓶の花を活け替えたあと、巡はふうと息をついた。
そしてそのとき、巡の名を呼ばれた。
「メグル様」
「あ、ウィーダさん」
振り返ると、茶色いくせ毛の男がいた。彼は犬の獣人で、ウィーダという名である。
彼は朝に巡の仕事を説明してくれた人物であり、ヨンシの「一番下の息子です」とのことだった。
彼はヨンシによく似た穏やかな笑みを浮かべている。
「順調ですか」
「はい。いま全部終わったところです」
「全部ですか? それは早いですね」
「ヨンシが手伝ってくれるので、私はほとんど何も……」
「ふふ。はじめてですからね。それでいいんですよ。お疲れでしょう?」
ウィーダは茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせる。
「クッキーを持ってきました。庭で食べましょう」
「え、いいんですか」
「もう終わられたんでしょう? 私も休憩です。母が好きなんですよ、このクッキー」
ヨンシを見ると、彼女はふっくらとした唇で弧を描いている。
(いい親子だなあ)
理想の親子というのは、こういう親子のことをいうのだろうと思った。
三人で庭に出て、適当な東屋を選んでテーブルを囲む。
今日は小春日和で、風が心地よい。遠くには歩哨の兵士が見える。彼らものどかな風に吹かれて、おおまじめな顔を崩してあくびをしていた。
巡はテーブルいっぱいに広げられたクッキーを見て尋ねた。
「勝手に広げちゃって大丈夫なんですか?」
ウィーダが答える。
「大丈夫ですよ。メグル様はこの城の女主人でいらっしゃるのですから」
「えっと……」
「メグル様をとがめられるのはレスシェイヌ様だけですが、レスシェイヌ様はそのようなつまらないことをなさる方ではありませんよ」
ヨンシはもう食べる準備ができている。彼女は席に着くと、テーブルの上を見渡した。
「あら、ウィーダ、クッキーはいいのだけれど、紅茶はないの?」
「……ほんとうだ。そこまで気が回らず、すみません」
「あいかわらずうっかりしている子ねぇ……」
紅茶はないが、あたたかい空気はある。
三人はそのままお茶のないお茶会を開始した。
ウィーダが尋ねる。
「どうですか、この仕事は」
「びっくりしました。お城にはいろんなお仕事があるんですね」
「ふふ。きれいなものを見ながらの方が仕事ははかどりますからね」
「ウィーダさんは何の仕事を?」
「書記官ですね。レスシェイヌ様の予定を管理したり、その後の移動先に先ぶれを出したりします」
「へえ。大変そうですね」
「ちっとも大変ではありませんわ。わたくし、息子にはもっと馬車馬のごとく働いてほしいと常日頃思っていますのよ」
「そんな無体な……」
巡はふたりのやりとりを見てくすくすと笑う。
「仲がいいんですね」
「仲良くしないと、どんな目にあわされるかわかりませんからね。うちの母は容赦ないんですよ」
ウィーダは屈託なく笑う。その頭をヨンシが小突く。
巡は目を細めてふたりを見る。
(いいなぁ)
幸せそうな親子。巡にはまぶしすぎるくらいだった。
おだやかにおしゃべりを続けていると、そこにレスシェイヌがやって来た。
「なにをしている」
「わっ、あ、れ、レスシェイヌさん」
巡は慌てて立ち上がる。
「楽しそうだな」
レスシェイヌは巡の肩を押して、彼女を座らせる。
「仕事はつつがなく終えられたようだな」
「ええっと、はい。仕事は全部終わって、それで」
わたわたとしていると、レスシェイヌが小さく言った。
「……ウィーダと話すときは楽しそうだ」
唇がとがっているように見えた。
(……すねてる? まさかね)
ちらと頭に浮かんだ考えを即座に否定する。そんなわけがない。彼がすねる理由がない。
巡は言った。
「もう少しなにか仕事があるといいんですけど」
「……もう十分だろう」
「でも、まだ全然」
そこにヨンシが割り込んだ。
「いいえ、メグル様。お仕事を増やすのは、まずはいまのお仕事に慣れてからにしましょう」
そしてヨンシはテーブルを爪ではじいた。
「ねえ? レスシェイヌ様。ここにクッキーがありますのよ。でも、何か足りなくて」
「……茶を用意させよう」
「ふふ。なら、仲間に入れてさしあげてもよろしくてよ。ウィーダ、あなたは椅子を持ってきて差し上げて」
レスシェイヌが侍従に命じて紅茶を運ばせ、ウィーダは椅子を運んできた。
そして茶会は四人になって再開する。
しかしなかなか誰も口を開かない。巡は所在なく、湯気の立ち上る紅茶をゆっくりと口に運んだ。
「あっ……」
巡が声をもらすと、三人が一斉にこちらを見る。
「どうした?」
「これ、おいしい」
それはいままで飲んだどの紅茶よりもおいしく感じられた。
「そうか。それはよかった。今度、叡盟城に同じものを届けさせよう」
「いいんですか?」
「なにが悪いんだ?」
「……だって」
ヨンシが間に入ってとりなす。
「メグル様、そういうときはありがとう、とおっしゃればよろしいんですよ」
「あ、ありがとう、ございます……?」
なんというか、奇妙な感じだった。
自分と結婚しないと言い切ったレスシェイヌ。そんな彼にやさしくされている自分。
なぜ、という疑問は日に日に大きくなる。
巡は努めてその疑問を押し殺した。