髪を切ってからしばらくの間、巡はおびえていた。
ふいに母親がやってきて「なんてみっともない髪しているのよ!」と怒鳴られるような気がしていた。
巡はそうしてずっと怒鳴られてきたのだ。
かわいいキーホルダーをお土産でもらってこっそりカバンにつけたときも、レースのついたキャミソールを欲しがったときも、作文コンクールで入賞してピンクの消しゴムを賞品としてもらったときも。
「女らしい」は「駄目なこと」――ずっとそう刷り込まれてきた。
ひと月もすると、巡はやっとおびえなくなった。
ここには母親はいないのだ。頭では理解していたことに、ようやく心が追いついた。
あこがれていた髪型。手入れをされていることがわかる髪型。それは巡がうまれてはじめて自分で選んで手に入れたものだった。
巡は鏡を覗き込むのが楽しみになっていた。
巡に訪れた変化はそれだけではない。
レスシェイヌがたびたび巡のもとにやってくるようになったのだ。
彼とは他愛もない話をした。天気のこと、食事のこと、侍女の噂話、庭に迷い込んだ子猫の話。
巡は緊張しつつ、失礼がないように、と頭をぐるぐる回しながら話した。
レスシェイヌはとりとめもない巡の話を楽しそうに聞いていた。
それを見て、巡はレスシェイヌの心をはかりかねた。
(なんで、こんなにやさしくしてくれるんだろう)
その疑問は日に日に大きくなった。しかし巡に彼の本意を尋ねる勇気はなかった。抱いた疑問はそのうちおだやかな日々の中に溶けていった。
否、溶かすことにした。
「ここのところすっかり明るくなられて。わたしくしは本当にうれしく存じますわ」
ある日、ヨンシがそう言った。
ちょうど巡の部屋の修繕も終わり、きれいになった寝室で寝る準備をしているときだった。
巡はベッドの端に座って、ヨンシを見上げた。ヨンシは手際よく寝る前のミルクを用意している。
「え? そう?」
「ええ。もちろん、メグル様はご家族やご友人と離れ離れになったのですから、お寂しいでしょうから、気落ちされるのは当然なのですが」
「あ、ああ……」
ご家族や友人。その言葉を聞いて、巡は動揺した。
(そっか、ふつう、それで落ち込むんだよね)
いまヨンシに言われるまで、むしろ母親がこの世界にいないことに安堵していた。友達にいたっては、思い至りもしなかった。
(私って、もともとふつうじゃないのかも)
その考え少しだけ巡の心にまた暗い影をおとした。
巡は口を開いた。
「あのね、ヨンシ」
「はい?」
「働きに出てみたいんだけど」
巡が言うと、ヨンシは眉根を寄せた。
「それはなぜでしょう? お勉強から始められたほうがよろしいのでは?」
以前ヨンシが提案していた家庭教師を招くと言う話は巡が引きこもりになったせいでいまだに実現されていない。
しかし、巡はもう勉強に惹かれなかった。それより、働いてみたい気持ちの方が強かった。
「ふつう、この国では十六歳ならもう働くんでしょう?」
「大学生ならまだ勉強している年頃ですけどね」
ヨンシは渋い顔だ。巡はあきらめない。
「簡単な仕事なら、私でもできると思うんだけど」
「メグル様はレスシェイヌ様の番ですもの。働くというのは……」
「でも、私は結婚してないよね?」
「結婚していなくとも、番は番ですわ」
「番……」
今度は巡が渋い顔をするばんだった。
番と言われても、それらしいことはなにもしていない。だから番だから駄目だ、と言われてもいまいちピンとこなかった。
黙ってしまった巡を見て、慌ててヨンシは言い添えた。
「メグル様がどうしてもとおっしゃるなら、レスシェイヌ様にお伺いしておきます」
「ほんとう?」
「ええ。めったにないメグル様のおねだりですからね」
「そのうちいっぱいわがままを言い出すかもよ?」
「それくらいでいいんですよ。わたくしはいつ悪い子どもを叱り飛ばせるのかと心待ちにしているのですからね」
ヨンシはからからと笑った。
翌日の午後、巡のところにレスシェイヌがやってきた。
巡の茶室に入るなり、彼は本題を切り出した。
「働きに出たがっていると、ヨンシから聞いたが」
「え、あ、はい」
「なぜ、働きたいんだ?」
母親にお前はふつうではないから仕事なんかできない、と言われていたこと。
母親の言うことが本当なのかどうか知りたいこと。
だから挑戦したいこと。
しかしこれを言うには、たくさんの説明が必要になる。
巡はそれを言う勇気はなかった。
「えっと……その、興味があって」
そうあいまいに答えると、レスシェイヌはじっと巡を見た。
まるで心の奥を見透かそうとするかのようなその瞳に、巡は居心地の悪さを感じた。
レスシェイヌは口を開いた。
「……私はいま、補佐官を探しているのだが」
「そ、そんなにたいそうな仕事はできないと思います」
慌てて首を振る巡に、ヨンシが口添えする。
「補佐官といっても、たくさんいますからね。雑用をする者もおりますよ」
「へえ」
それを聞いて、巡はちょっとだけその補佐官の仕事に興味を持った。
「それって、どんな仕事なんですか?」
「どんな仕事をしたいんだ?」
質問に質問を返されて、巡はたじろぐ。
「……ええっと」
「仕事をしたいのだろう?」
巡はじっと考える。どんな仕事をしたかったか。そう問われると――。
「実は、花屋さんをしてみたいです……」
「……花屋」
ヨンシは両手を叩いて「まぁ素敵」と言った。
しかし、レスシェイヌにとっては素敵な話ではないことは彼の眉間に寄った皺を見れば明らかだ。
巡は自分の言葉を撤回しようかと思った。
(なんでもいいって言い直そうかな)
花屋というのはほんとうに自分でもぽろっと出ただけで、そこまでしたいかと問われるとわからない。
でも、よく母親が持ち帰ってくる花束を見て「いいな」と思っていたのは事実だった。
巡が発言を訂正するより前にレスシェイヌが口を開いた。
「わかった」
「え?」
「善処しよう」
彼は端的にそう言うと、勢いよく踵を返して去ってしまった。
巡はおっかなびっくり言った。
「お、怒らせちゃったかな」
「いえ、そんなことはあり得ません。メグル様があまりにもかわいらしいことをおっしゃるので、張り切っているのでしょう」
そうヨンシは言い切った。