それから巡はすっかりふさぎ込み、寝室からほとんど出なくなった。
ヨンシはそんな巡を元気づけようと花をもってきたり、本をもってきたり、おいしい食事を並べたりした。
それはヨンシだけではない。他の者もあの手この手で巡を励まそうとした。それはずっと会えていなかったレスシェイヌも同じであった。
「レスシェイヌ様がお越しです」
レスシェイヌはたびたび巡のいる城を訪れるようになった。
しかし、巡の返事はいつも同じだ。
「ううん。誰にも会いたくないんです。ありがとうとだけ伝えておいてください」
今日もレスシェイヌの訪問を告げに来た侍女にいつもと同じ答えを伝えたあと、巡はため息をついた。
少し前まではレスシェイヌが会いに来てくれないかと願っていたが、いまはその気持ちは消え去ってしまった。
(そりゃあ、結婚してもらえないわよね)
耳がなく、しっぽもない。それでも獣人の匂いがする、獣人でも、人間でもない存在。
獣人ばかりのこの世界において異端な自分。
(あんまりよね……)
しかし、何を恨んだところでこういう問題はどうにもならないことをこの16年間の人生で嫌というほど思い知っている。
(誰にも会いたくない)
結局、自分はあのバス停で息をひそめていたころから何も変わっていない。
異世界に招かれたところで、自分はどこまで行っても自分なのだ。
人目を避けて隠れる場所が、バス停か寝室かの違いだ。屋根があるだけましなのかもしれないが。
「嫌になっちゃう……」
ひとりつぶやいた。
場所は寝室だ。
巡はここで寝て起きて、食事も済ませている。寝室には大きな窓がある。できることならカーテンを閉めて人目を避けたいが、閉めると必ずヨンシが飛んできて開け放ってしまうのだ。
差し込んでくる日光が、かろうじて巡の時間感覚を保ってくれていた。
(街に行ってから、もう20日か)
ふとなにげなしに寝室の鏡台を覗き込んだ。
鏡にはこちらの世界に来て得た新しい外見の自分が映っている。
金色の髪に、レスシェイヌと同じ紫紺の目。
巡は髪に手櫛を入れた。髪はまっすぐに腰まで伸び、さらさらと指の間を抜けていく。
「……きれいな色」
この色を、巡はとても気に入っていた。巡はずっと髪を染めたいと思っていた。それがこんな形で叶うとは。
通信制高校に入学が決まったとき、まったく乗り気ではなかった。しかし、在校生たちの自由な雰囲気だけは少しだけ気に入っていた。
制服もなく、校則らしい校則もない。見学に行ったときには「警察に補導されたら退学だよ」という簡単な説明があっただけだった。
生徒たちはみな思い思いの服装をして、好きな化粧をして、好きな髪形をしていた。
新しい服を買うためにアルバイトをしなくては、という話し声も聞こえた。
巡の目に、彼女たちは眩しかった。
髪を染めてみたい、と思ったのはそのときだった。
巡の母親はずっと髪をきれいな赤みがかったブラウンに染めていた。
美容室、というところに行ってやってもらうのだということは知っていた。しかし、巡は美容室に行ったことがなかった。
巡の髪は伸ばしっぱなしで、鬱陶しくなってきたら筆箱の中のはさみで適当に切っていた。
巡は鏡の中の金色の髪の女を見つめた。
「でも、こんな髪色、お母さんが見たら怒るだろうなあ」
母親は巡が女になるのを嫌っていた。
この髪ではもうあちらに戻れない。いや、戻るすべがそもそもあるのだろうか。
目の端に、鏡台においてあるハサミが入った。それは朝の身支度の時にヨンシが前髪や毛先を整えるのに使っている華奢なつくりのものだ。
無意識に、それを手に取っていた。
(お母さんに怒られちゃう)
ハサミの刃をゆっくりと開く。吸い寄せられるように、その刃に髪をあてがう――。
「何をしている!?」
怒声がして、巡がそちらを見たときには、すでに窓の向こうに人影があった。黒い影はそのまま窓を割って部屋の中に転がり込み、同時に劈くような音が響いた。
「きゃあ!?」
思わず悲鳴を上げ、巡は目を見開く。身を固くしている間に人影は大股で巡のもとに歩み寄るとその手にあるハサミを叩き落とした。
からんからんと高い音を立ててハサミが床に転がる。
巡はそれを目で追って、それから目の前の人を見た。
「レスシェイヌさん?」
そこにいたのは、あの日以来会っていないプラチナの髪と紫紺の瞳の男だった。
レスシェイヌは目を吊り上げた。
「何をしているんだ!」
「え……」
彼の耳は毛が逆立ち、しっぽは太く膨れている。
巡はぽつりと言った。
「……髪を切ろうと思って」
「……髪?」
「……レスシェイヌさん、どうしてここに?」
レスシェイヌの纏う空気がゆるんでいく。彼は息を吐きながら言った。
「窓から、あなたをひとめ見ようと思ったら、あなたが刃を首にあてようと、しているように見えて……」
彼の体から目に見えて力が抜けていく。
(ほっとしてる?)
もしかして、心配してもらえたのだろうか。なんとなく、それがうれしい。
(だめだめ。心配かけたことを反省しないと)
「ごめんなさい」
「いや……私こそ……部屋を荒らしてしまった」
巡の寝室には割れた窓硝子が散らばっている。
「それに、手を叩いてしまって、怪我はないだろうか」
言われて、手を見る。巡は首を振った。
「大丈夫です」
「すまない」
レスシェイヌと巡の間に沈黙が落ちた。
巡はどうしていいかわからずに、いつもの癖で右頬を隠すように手をそこにおく。
それから、いまは右頬ではなく人間の耳が問題であったことを思い出した。
あわてて耳に触れる。それは人間の、ふつうの耳だ。しかし、ここでは異端なものだ。
巡は髪で耳を隠すように覆った。
レスシェイヌは言う。
「髪を切るなら、理髪師を呼べばいい」
「はあ……」
「もしそれが嫌なら、ヨンシに頼め」
「え?」
「彼女は上手だ」
「そうなんですね」
レスシェイヌは巡の髪に触れた。彼は痛ましいものを見るような目でこちらを見ている。
「……どうして切りたいんだ?」
「……わからないです」
どうして、と聞かれると困る。切らなければいけないと思ったからだ。切って当然だと思った。
「お母さんがこの髪色を嫌がるかなって思って」
「お母さん?」
「……はい」
「それは、あちらの世界の……」
「はい」
「帰りたいか」
(帰りたい?)
その言葉は、なんとなくしっくりこない。帰りたいが、帰りたくない。帰りたくないが、帰りたい。
あちらに帰るということを考えると頭の中がぐちゃぐちゃになる。
母親が一声「帰ってこい」と命じたなら、巡は何の迷いもなく帰るだろう。しかし、いまはその母親がいない。
巡はひとりでは何も決められなかった。
「わかりません」
「……そうか」
レスシェイヌのしっぽが、少しだけ揺れた。