ヨンシの言葉通り、市場はたいへんなにぎわいだった。
簡易的に布を敷いた上に商品を並べた店、石造りの建物に立派な看板をもつ店、どれも遠目にわかるほどに活気がある。
忙しそうに男たちは働き、その足元を子どもたちが駆けていく。
客を集める声に、値切る声。通りを歩く人々の顔は自然と明るくなっていく。
巡も自然と軽い足取りとなって、市場の小道を進んだ。隣にはヨンシ、後ろには護衛のふたりがいる。
巡はきょろきょろと物珍しげに店を見て回る。しかし生来の人見知りである巡は店主に声をかけられると一目散に逃げだしてしまった。
ヨンシはあきれながら言った。
「逃げなくとも、襲ってきやしませんよ」
「う、うん、わかっているんですけど……」
わかっている。わかっているのだが、知らない人に目を向けられると巡はどうしても逃げてしまうのだ。
(そもそも、買い物なんて滅多にしたことないし)
巡は足元に目を落とした。ぴかぴかに磨かれた革の靴が目に入る。ヨンシはヒールのある靴を、と言ってくれたが、うまく歩けなくてこの飾り気のない革の靴を履くようになった。
かつての巡はぼろぼろのスニーカーを一年中履いていた。それだけではない。服も文房具もすべて使い古してぼろぼろになっていた。
巡には小遣いがなかった。
ごくまれに母親の客が巡に金を投げてよこすことがあったが、それは空腹を満たすためにスーパーの見切り品を買いに行くほかになかった。
そんな事情を知らないヨンシは朗らかに尋ねる。
「何か買われますか?」
「買っていいんですか?」
「ええ。もちろん。せっかくですから」
「でも、お金、持ってないです」
「わたくしが持っておりますわ」
「……返せないですよ」
「あらやだ。メグル様のお金ですわよ」
「そうなんですか?」
「ええ。レスシェイヌ様がメグル様に、と」
「……ふうん」
少しだけ胸の奥があたたかくなる。
こちら側に呼ばれたあの日以来、レスシェイヌには会えていない。きっと彼は私のことなど忘れてしまっているのだろうと思っていた。
だから、彼が私を忘れていないということを知れるだけでもうれしかった。
「でも何を買ったらいいのか……」
「なんでも、お好きなものを」
「好きなもの……」
それが一番困るのだ。好きなものなど、考えたことがない。
巡は困ってしまって、ヨンシに助けを求める。
「なにかおすすめはありますか?」
「おすすめ、とおっしゃいますと……。お菓子はいかがでしょう?」
「うん。じゃあ、それにします」
ヨンシに手を引かれて、市場を進む。
彼女の話では、秩序なく店が並んでいるように見えるが、だいたい店の種類ごとに集まっているのだという。
その言葉通り、菓子屋は市場の西に集まっていた。あたりいったいに甘い匂いが立ち込めている。焼き菓子に生菓子に、砂糖漬け。そこにはたくさんの菓子が並んでいた。
「ささ、メグル様。どれになさいますか?」
ヨンシは楽しそうに言う。巡も彼女を真似して並ぶ菓子を見てまわる。
確かにどれもおいしそうで、どれもかわいらしい。
しかし、巡はどれも選べなかった。
「気になるものを片っ端から買えばよろしいんですよ」とヨンシは唇を尖らせたが、巡はただかたくなるばかりだった。
「め、目移りしちゃって」
結局、ヨンシのおすすめだというお菓子を四つ買って、みんなで分けて食べた。ガルムという名のそれは甘く、口に入れるとほろほろと溶ける。
ヨンシは「おいしいでしょう」と自信満々だった。巡はそれがヨンシがそういうのなら、そうなのだろうと思った。
それからはまたあてもなく市場をうろうろと歩いて回った。
巡はやはり買い物という行為になじめなかったが、楽しそうな人の中にいることが楽しかった。
ぼんやりとしていると、向こうから子どもが走ってきて、巡の膝にぶつかった。
「わ、ごめんなさい」
子どもはぱっと顔をあげて巡に謝罪する。年のころは6歳くらいだろうか。頬の産毛がかわいらしい。
「ううん、いいのよ」
「メグル様、お怪我は」
「大丈夫」
子どもはじっと巡を見つめる。
「お姉さん、猫?」
「猫?」
「僕も猫だから」
「あ、ああ……」
少年はその頭に猫のような耳を生やしていた。それはレスシェイヌのものよりもずっとやわらかそうだった。
「かわいいね」
巡が言うと、少年はにかっと笑った。
「猫はいいことを運ぶって俺の母さんが言ってたよ。お姉さんも、俺もいいことを運べるね」
「う、うん」
子どもの純粋な勢いに負けて、思わずうなずく。
(猫? 私のこと?)
巡が内心首をかしげていると、風が一度大きく吹いた。
その風に帽子があおられる。
「あ」と思った時にはもう遅かった。巡の目に、飛んでいく黒い帽子が見えた。
帽子の下から長い金色の髪が現れる。
子どもは零れ落ちそうなほどに目を見開いた。
「……人間の耳だ」
そのつぶやきに、巡の心臓が大きく跳ねる。
子どもは純粋に、そして残酷に言った。
「猫の獣人の匂いがするのに、なんで人間の耳が生えてるの? 変なの」
「あ……」
――変な子ね。
ここにいるはずのない母の声が聞こえた気がした。
子どもは屈託のない瞳をむけている。その目には悪意はない。わかっている。わかっているのだが。
巡は子どもに背を向けて走り出した。
「メグル様!」
ヨンシの呼び止める声が聞こえたが、動き出した足は止まらなかった。
市場の中をめちゃくちゃに走り回った。
誰にも姿を見られたくなくて、誰もいないところを探しまわった。
しかしその場所を見つけるより先に、護衛のふたりに抱き留められるようにして捕まり、その場に座らされる。
肩で呼吸を繰り返していると、ヨンシが追い付いてきた。
巡はヨンシに叫ぶように尋ねた。
「私って、変なの?」
「変、といいますか。きっとあの子に人間が珍しく見えただけですよ」
「でも、獣人の匂いがするって!」
ヨンシは息を飲んだ。巡はさらに言い募る。
「そうなの? 私、獣人なの?」
少し呼吸を落ち着かせて、ヨンシは言った。
「……メグル様はレスシェイヌ様の番ですもの。獣人ですわ。間違えてあちらに生まれてしまっただけの、獣人です」
「じゃあ、なんで耳としっぽがないの……!?」
「珍しいですが、異世界から来たお方にはそういうこともあると」
「珍しいのを変っていうのよ!」
巡は叫んだ。
そうか。そうだったのか。
これがレスシェイヌが私と結婚しなかった理由。私が犯した失敗。
巡は目に熱いものがこみあげてくるのを感じた。ぐっと奥歯に力を入れてそれを耐える。
頬に手をやる。滑らかな皮膚。傷のない顔。喉から手が出るほどほしかった「ふつうの顔」。
それをようやく手に入れたというのに。
「やっとふつうになれると思ったのに……」
こちらの世界でも自分ははみ出し者なのだ。
巡は声をあげて泣いた。