巡には友人がいない。
いや、正確にはひとりだけいたのだが、いまは疎遠になってしまっていた。
その友人の名前は田中光莉。名前のとおり、眩しいくらいに人気の子だった。
光莉は中学一年生の二学期に引っ越してきた転入生だった。このころはまだ巡も学校に溶け込もうと努力をしていた。
たまたま光莉が隣の席になって、その日一日机をくっつけて教科書を見せて、そして仲良くなったのだ。
光莉は頭がよくて、運動神経もよくて、明るくて、やさしくて、流行りの筆箱を持っていて、最新のスマホをもっていて、みんな彼女と仲良くなりたがった。
それでも、光莉の最初の友達は巡だった。
巡はそれが誇らしくて、それでいて申し訳なかった。
人気者の片りんを見せている彼女に、自分なんかが釣り合うと思えなかった。
光莉が巡の友達でいてくれたのは半月ほどだった。
半月もたつと、彼女は巡を避けるようになる。
トイレに行くのも、教室移動も、給食の時間も、巡はまたひとりぼっちに戻ってしまった。そして、巡が学校に行けなくなったのはこのころからである。
以来、光莉には会っていない。
彼女がコンビニでアルバイトを始めたという話を聞いてから、一度だけ遠目に見に行った。彼女ははきはきと「いらっしゃいませ」とあいさつをして、くるくると働いていた。
――眩しい彼女に、話しかけることなどできなかった。
「メグル様?」
声を掛けられて、巡は顔を上げた。そして目を数回瞬かせる。ヨンシが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「どうかなさいましたか?」
「ううん。ごめん、考えごと」
巡は精いっぱい笑ってみせた。
巡とヨンシを乗せた馬車は石畳の道をゆっくりと進んでいく。
街に行きたいという巡の希望は、その翌日には叶えられた。
今朝、レスシェイヌのもとから護衛がふたりやってきたのだ。
その護衛たちのうちひとりは御者席に、もうひとりは騎乗して馬車の後ろにいる。
彼らはそれぞれ「メジェハ」と「ガレス」と名乗った。彼らはふたりとも立派な虎の耳としっぽをもっていた。きっと虎のように強いのだろう。その腰には巡の腕ほどもある太さの剣を佩いている。
ヨンシによると、護衛をおくるにあたって、レスシェイヌは「好きなようにさせてやりなさい」と言ったらしい。巡はその言葉をどう受け取ればいいのかわからなかった。
馬車の窓から外を見る。
かわいらしい絵本から飛び出してきたような街並みだった。煉瓦の赤い屋根の家、石畳の道、木の看板を出しているお店。
眺めているだけでわくわくしてくる。
「獣人ばっかりですね?」
往来の人々はみな耳としっぽをもっている。
「ええ。獣人の国ですもの」
「国の名前はなんていうんですか?」
「さあ……。ただ、獣人の国、と。街の名前はレプレニカですわ。王都、という意味ですわ」
「レプレニカ」
巡はメモ帳を取り出してすばやくそれを書き留める。こちらの世界にはボールペンやシャープペンシルといった便利なものはない。
使うのは羽ペンとインクだ。揺れる馬車の中でインクの瓶をあけるのが怖かったので、紙にペン先を押し付けて文字の跡をつける。
レプレニカ。耳に馴染のない音だ。こうして書き留めておかなくてはすぐに忘れてしまいそうだった。
巡はさらに尋ねる。
「じゃあ、人間の国も?」
「東のどこかにあるという話ですね」
「他には? 他には何の国があるんですか?」
「北には竜人の国、南には精霊の国がありますわ」
「竜人に、妖精、かぁ……」
「竜人は乱暴者が多いといいます。妖精は、そうですね、いたずら好きが多いとか」
「へえ」
巡は目を丸くした。
(ほんとうに、ファンタジーの世界みたいだ)
もっとも、そこで巡は冒険もしなければ魔法も使わないのだが。
馬車が一度大きく揺れる。
石畳の道は日本の舗装された道のように平らではなく、また馬車の車輪はゴム製ではない。それで、ときおり大きく揺れてはぎしぎしと音を立てた。
ヨンシが言った。
「大丈夫ですか? 酔いませんか?」
「うん。平気」
「あら、帽子がずれていますわ」
「え? ああ……」
巡は灰色のワンピースに薄い黒のカーディガンを羽織って、つばのある黒い帽子をかぶっていた。
ヨンシは「春ですから、もう少し明るい色でも」と別の服を勧めたのだが、巡は「自分には明るい色は似あわない」と言って頑として受け入れなかったのだ。
ヨンシは巡の帽子を直してやりながら言った。
「いいですか。街では帽子をかぶって、絶対に外してはいけませんよ」
「人間ってばれてはいけない?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
ヨンシは言葉を濁す。
彼女は巡の質問には答えず、話題を変えた。
「どこか気になる場所はありましたか?」
巡たちは目的地を決めないまま城を出た。ヨンシはあれこれと提案してくれたのだが、巡は決めることができなかった。ヨンシに任せたかったのだが、ヨンシは巡が決めるべきだと引かなかった。
それで馬車で適当に市内を回って、気になる場所があれば降りよう、ということになったのだ。
少し悩んだあと、巡は口を開いた。
「あの、ええっと、人と知り合うにはどこに行けばいいですか?」
「人と、ですか」
「あ、獣人って意味で」
「ああ」
ヨンシは首をひねる。
「学校が多いと思いますが……」
「学校かぁ……私もそのうち学校に行くんですか?」
「メグル様はレスシェイヌ様の番ですから。家庭教師を呼ぶことになります」
「そっか」
少しほっとする。
「あとはパーティーでしょうか」
「パーティー?」
「ええ。パーティーではお知り合いをつくれますよ」
巡はちょっと考えて、それから肩を落とした。
「でも、それって最初に誘ってくれる友達が必要ですよね?」
「まあ、そうですが」
友達をつくるのに、友達がいる。まったく世の中はたいへんよくできている。巡はため息をついた。
その巡の唇に、ヨンシが指を押し当てた。
「いけませんわ」
「……へ?」
驚く巡に、ヨンシは片目をつぶって言った。
「ため息をついたら幸せが逃げますわよ」
巡はあっけにとられた。なんとなく気恥ずかしくて、もごもごと言う。
「……それ、こっちの世界でも言うんだ」
「あら、つまり間違いない、ということですわね。きっとため息はどこの世界でも幸せを逃がしてしまうのですわ」
「……そっか」
ヨンシの指が唇から外される。巡はヨンシに触れられた場所を撫でた。なんとなく、まだ気恥ずかしい。
巡がもじもじしていると、ヨンシが明るく提案した。
「市場を見に行ってはいかがでしょうか」
「市場?」
「ええ、本来なら高貴な方をご案内する場所ではないのですが。人が多くてにぎやかですわ」
にぎやかな場所。かつては絶対に選ばない場所である。しかし、巡は生まれ変わると決めたのだから。
「うん。そこにします」
巡はつとめて笑顔を作った。