叡盟城は山の上にある明媚な城である。巡は城の一番広い居室を与えられた。
植物が描かれた壁紙に、焦げ茶色の家具。寝室だけでも母娘で暮らしていた1LDKより広い。そういう部屋がいくつもドアでつながっていて、そこ一帯は全部巡専用のものなのだという。
たくさんある部屋はそれぞれ書斎、居室、寝室、茶室、書庫、と役割をもっている。さらに中庭や温室などもあるのだから、巡は自分に与えられた空間で何度も迷子になりかけた。
しかし、心配はいらない。彼女のうしろにはいつもぴたりとヨンシという名の侍女がついている。ヨンシは巡の部屋だけでなく、外敵の侵入を妨げるために複雑な造りになっている城全体を把握していて、巡が行きたい場所にいつでも案内してくれた。
こちらに来て半月もすると、この場所についてどんどん分かってきた。
ひとつめ。レスシェイヌたちは獣人と呼ばれる種族で、獣の耳としっぽをもつこと。
ふたつめ。レスシェイヌはこの国の第一王子であること。
みっつめ。獣人が成人と認められるためには番と出会う必要があること。
よっつめ。番が異世界に生まれることもあること。
いつつめ。たとえ異世界に生まれていたとしても番は糸を通じて繋がり合い、出会えば愛しあい、夫婦となること。
もっとも、いつつめに関してレスシェイヌはあてはまらないようだが。
巡はため息とともにメモ帳を閉じた。メモ帳に書いた「分かったこと」はこの調子であと二十ほど続く。
毎日、世話係のヨンシから聞いた話をメモしているのだ。これは巡が子どものころからの習慣だった。
――失敗しないように。目立たないように。
それが巡を動かす原動力だった。
巡は書斎にいた。そこには大きな窓とバルコニーがあり、立派な猫足の机と椅子が置いてある。他の部屋よりも装飾は少な目で、巡は落ち着いた雰囲気のこの部屋が気に入っていた。
巡はぽつりと言った。
「今日も、レスシェイヌさんは会いに来てくれないんですね」
窓の外を見る。この城は巡のもので、レスシェイヌは窓から遠くに見える燦英城にいるのだという。その城は代々第一王子の居城として使われているものなのだと聞いた。
巡のつぶやきを拾って、ヨンシが言った。
「会いたいとお手紙を出してみてはいかがでしょうか」
「いえ、そんな……お忙しいでしょうし」
巡は頭を振った。自分などから手紙をもらっても迷惑だろう。
巡をこちらに呼んだのはレスシェイヌだ。
彼が巡を呼んだ理由は、彼が成人と認められて王の後継者として指名を受けるのに番が必要だったからだ。
ふつう番は愛し合い、夫婦になる。しかし、レスシェイヌは番である巡を呼んだだけで、夫婦になろうとはしなかった。
脳裏に、プラチナの髪がゆらりと揺れた。
――運命の番は結婚をするものですが、私はそのつもりはありません。
あの日聞いたレスシェイヌの言葉が、日を追うごとに深く巡に突き刺さる。
(私が駄目だったんだ)
きっとそうにちがいない。自分がなにか失敗をしてしまったから、レスシェイヌは巡を愛してくれなかったのだ。
巡は奥歯を噛み締めた。
会いたいという手紙が、書けるはずがない。
(そもそも会ってもらったとして、なにを話したらいいか、わからない)
巡は途方に暮れた。
このひとつの失敗除けば、城での生活は快適だ。こちらの世界で巡がしなくてはいけないことはなにもない。
ただぼーっとしていれば一日が終わる。それは平穏ともいえ、退屈ともいえる。
「私、この世界で何をすればいいんでしょうか」
「何も。ただ楽しくお過ごしいただけましたら」
「ヨンシさんは」
「どうかヨンシ、と」
「ヨンシ」
巡は慌てて言い直す。たびたび注意されているのだが、どうしても年上の彼女を呼び捨てにすることに慣れなかった。
「ヨンシは、レスシェイヌさんとの付き合いは長いんですか?」
「はい。乳母を務めました」
巡は目を丸くして目の前の女を見た。
「乳母? ヨンシが?」
「ええ。今年で四十四になりますわ」
三十代前半であった自分の母親の目じりに入った皺を思い返し、巡は首を振った。
「見えない……。すっごく若く見えますね……」
三十代前半、ともすれば二十代にも見えそうなほど、彼女ははつらつとしている。
「あら、ありがとうございます。でも、もうふたり子どもを産みましたわ」
「子どもたちはどこにいるんですか?」
「レスシェイヌ様にお仕えしております」
「そうですか……なんでヨンシは私のところに?」
「立候補しましたのよ。他にも手を挙げるものがいましたが、勝ち取りましたわ」
「…………そうですか」
巡は黙りこくった。
レスシェイヌにすべてを捧げているヨンシ。
きっと、巡がレスシェイヌと夫婦になることを期待して巡の侍女になったのだろう。巡はその期待にもこたえられなかったことになる。
(ヨンシ、きっとがっかりしているんだろうな)
がっかりしているかと問いたかったが、その言葉は音になる前に消えた。
もしその質問に彼女が是と答えたら、巡は自分が立ち直れないだろうと思ったのだ。
巡はため息をついた。
ずっと自分がなにかに責め立てられているような感覚があった。わざわざ異世界から呼び出され、贅沢な暮らしをさせてもらっているのに、ちっとも期待に添わない自分。
巡は眉根を寄せた。
「なにか、することがあるといいんですけど」
「こちらのことを学ばれてもよろしいかと存じますが」
「勉強……? でも、いまもヨンシがいろいろ教えてくれていますよね」
メモ帳に手をおく。そこには毎日たくさんのこちらの世界の常識が書き込まれていく。それらはすべてヨンシが教えてくれたものだ。
ヨンシは笑った。
「あまりにもメグル様がいい生徒ですので、もうわたしくにお教えできることはありませんわ」
「でも、勉強といっても、まだこっちの常識もわからないですし」
「それを習えばよろしいかと。何も小難しいことばかりが勉強ではありませんわ」
巡は少し考えたあと、うなずいた。
「そうですね。それもいいかもしれません」
ほんとうは乗り気ではないのだが、ヨンシの期待に応えたかった。
ヨンシはぱっと両手を合わせた。
「先生をお呼びしますわ」
「先生」
苦いものが胸に広がる。先生、から連想される学校、クラスメイト、勉強……どれもいい思い出がない。
(駄目だなぁ)
すぐに弱気になるところ。そして、すぐに卑屈になるところ。わかっているのに、なおせない自分の悪いところ。
(変わらなきゃ……)
このままではいけない、という思いがあった。それは前の世界にいるときもずっと抱いていたのだが、いまはそれがいっそう強くなった。
巡は窓の外を見る。
城の外、山の下にはかわいらしい煉瓦の街並みが広がっている。
「外に出てみてもいいですか?」
「ええ。お庭のアルカンザの花が満開ですよ」
「あ、いえ、そうではなく」
巡はぐっとこぶしを握った。
「街に行ってみたくて」
そう、レスシェイヌへの恋心は叶いそうもないが、新しい友人をつくることはできるかもしれない。
巡は精いっぱいの笑顔をつくってみせる。
せっかく異世界に来たのだから、巡は新しい人生を歩んでみたかったのだ。