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第2話

 男の手を取った瞬間、世界が遠くなった。

 あれほどやかましかった雨の音も、男のすえた臭いも、すべて薄い膜の向こうにいってしまった。景色はにじみ、やがて形を崩して溶けていく。


 巡はその中を歩いた。途中、何度か怖くなって立ち止まりかけるが、そのたびにつないだ手を強く引かれる。


 青年は一度も振り返らなかった。巡も一度も振り返らなかった。振り返るような価値のあるものがなかった。

 青年のひとつにまとめたプラチナの髪が右に左に歩くたびに揺れた。


 歩いていたのはごく短い間だった。青年が上へ上へと昇って行き、それに合わせて巡の体も浮かび上がり、水面から顔をだすようにしてにじんだ景色の外に出た。


 突然明るくなって、巡は目をつむった。


「ああ、帰って来られた」と人の声がした。

 おずおずと目を開けると、巡は快晴の空の下にいた。目の前には彫刻があった。白い石を掘ってつくられたそれは人の背丈の三倍はありそうなほど巨大である。彫刻は男を模しているようだった。足元まである長いローブを着て、ひげを生やした男だ。


 巡はその像をじっと見つめた。像の頭には犬のような耳が、そして腰のあたりからはこちらも犬のようなしっぽが生えている。

 巡はその像の前に立ちすくんでいた。


 巡の右手はまだ青年と繋がれたままだ。青年が尋ねる。

「……名前は」

「巡」

 と、短く答えると、青年はうなずいた。

「そうか」

 太陽の下で見ると、彼のプラチナの髪はますます光り輝いて見えた。巡は目を細める。


 青年の向こうには石の階段が見えた。それは円形にこの銅像を取り囲んでいる。ここは屋根のない劇場のような建造物だった。

 巡はそのステージ部分に立っていて、まわりにはこちらを見つめる複数の人影がある。


「あれ、珍しい」

 人影のひとつがこちらに歩み寄りながら言った。

 彼は足取り軽く巡の傍にまでくると、巡の頭の上にぽんと手を置いた。

「耳がないね」

「耳?」

 巡は手をにぎったままの青年を見上げた。青年にも、そしていま近づいてきた人物にも、犬のような耳が生えている。前者にはプラチナの耳、後者には黒い耳。


 プラチナの耳の毛が逆立つ。

「気安く触るな」

「いいじゃないか、別に」

「よくない」

「でも、うまくいってよかったね」

「よかったよかった」と何人もの声がした。それでようやく、巡は人の視線が自分に集まっていることを自覚した。


 彼女はぱっと顔を伏せる。そして繋いだ手をほどいて右頬を手で隠す。そこにあるものを衆目にさらしたくなかったのだ。しかし。


(傷が、ない)


 そこには滑らかな皮膚の感触があるだけだった。

「うそ……」

 それが信じられず、なんども指で頬を触り、つねるのだが、やはりそこにはあの忌まわしい傷はなかった。


 変化はそれだけではない。伏せた拍子に顔にかかった髪。巡のそれは美容師代をもらえなかったために背中の中ほどまで伸ばしっぱなしになっていた。

 そういう理由で伸ばしているので、当然カラーもパーマもかけていないのだが、その髪が、金色になっている。

「なに、これ」

 巡は呆然と髪の一束をつまみあげた。金色の髪は太陽の光を浴びて、燦然と輝いている。


「無事にこちらの世界に適合できたみたいですね」

 また別の、三人目の男がそう言った。三人目の男は帽子をかぶり、大ぶりの杖を持っている。

「適合?」

「ええ。あなたはこちらの世界で生きていくのに、ふさわしい姿にかわりました。――生まれ変わった、と言えばわかりやすいでしょうか」

「生まれ、変わった」


 頬に触れる。

 ずっと巡を苦しめていたものが消え、愛のない世界からも解放された。

 ――生まれ変わった。

 その言葉はきらきらと光を伴って巡の心にすとんと落ちた。


 帽子の男はさらに続ける。

「では糸を消します」

「……糸?」

「ええ。糸です。あなた方をつないでいる。いまだけ見えるようになっているでしょう?」

 男の視線をたどると、巡の左手の薬指に赤い糸が結ばれていた。

「……これ」

 糸は重力に従い地面に落ち、そこでぐるぐると円を描いたあと、重力に逆らい上へ――巡を迎えに来た青年の左の薬指につながっていた。


 巡は胸を押さえた。鼓動がはやくなるのを感じた。

「消しますよ。見えなくするだけですからね。安心してください」

 男が杖で地面を叩くと、その糸はふっと消えてしまった。なんとなくそれがさみしい気がした。


 糸が消えたのを確認して、プラチナの髪の青年が巡に向き直った。

「メグル」

「は、はい」

 声がうわずる。青年の瞳はきれいな紫紺だった。夜明けの色だ。巡は思った。長い夜が終わりを告げて、これから幸せな物語が始まる。それを告げる色だ、と。


「彼女はヨンシ。ここでの生活に足りないものがあれば、彼女に言ってください」

 彼が示した先には、背の低い女がひとり立っていた。年齢は30代前半くらいだろうか。彼女は恭しく頭を下げた。その頭の上、短く切りそろえた茶色い髪の上で茶色い獣の耳が揺れている。


 巡は尋ねた。

「私は、ここで暮らすのですか」

「ここではなく、私の城で」

「城?」

「叡盟城です」

 叡盟城。それがどこにある城か、巡は当然知らないのだが、彼の城だというのならきっといい場所なのだろうと思った。


 巡はさらに質問を重ねた。

「ここはどこですか」

「ここはシェハナ教会です。あちら側とこちら側をつなげられる場所」

「あなたは、誰?」

「レスシェイヌ」

 青年の名をようやく知れて、巡は少しほっとした。

 レスシェイヌ。その名を口の中で転がす。その名は巡の心の深いところにかちりとはまった。


 レスシェイヌは言う。

「あなたの運命の番です。結ばれた糸をたどって、あなたを迎えに」

「……それって」

 巡の胸がときめいた。

 彼女はずっと自分だけの王子様が現れて、つらい状況から救ってくれるのを待っていたのだ。

 巡はレスシェイヌを見た。

 その期待に満ちた目を受けて、レスシェイヌはふいと目をそらした。

「運命の番は結婚をするものですが、私はそのつもりはありません」

 巡の目の前が真っ暗になった。




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